「波を待って」読了。主人公の亜子が待っていたのは、波ではなくて波に溺れ死にかけた夫。波=自然との共存の喜びと、その波に裏切られた夫の悲惨な姿(といっても、これはダイレクトに描かれてはいないのだが)の対比。大きな波と戯れ一体になること、すなわちサーフィンに精神的な至福を見いだし夢中になる夫と、砂浜であれやこれや小さなできごとに心を向け、些事に対し妙なほど客観的になる亜子との対比。夫婦でありながら違う生き方をする二人を通じて、小池は何を描きたかったのだろう。救助された夫が船で浜に到着するのを待つ亜子の姿は、おそろしいほどの非現実感に満ちている。そこから何を読み取るべきか。うーん、よく見えない。おもしろくてたまらないんだけれど。
気になった点を引用。まずは、夫と見に行ったサーフィンの映画。
亜子は、サーフィンが単なる波乗りのスポーツでなく、生きる姿勢そのものであること、波というものが、それにとりつかれ、一度でも関係した人間を、底のほうから本質的に変えてしまうことを理解した。
映画に登場した人物は外国人ばかりだったが、なかには六十をすぎた老人サーファーもいた。女性もいた。みな、心底、幸福な人々だった。おそらく彼らは自分が幸福だなどと考えもしないだろう。考えもしないくらい、目がくらむくらい、幸福なのだ。その幸福は彼ら自身をはみだして、彼らを眺める人間たちを幸福にするたぐいのもので、そういうものをみると、ひとはうらやむ前にそれを味わう。そして考える。自分が今、感じているこれ、これはいったい何であるのかと。そして波は見るものでなく経験するものであることを、彼らの身体から痛切に感じ取るのだ。
最近はサーフィンに夢中のスピリチュアル・ヒーラーの友人、Yuuriちゃんに読ませたら「そーなのよ!」と言い出しそうな。
ところが、このトーンが読み進めるにつれてどんどん怪しい方向に向かい、崩れ落ちていく。のめり込むことの危うさ。それは外側にいる人間にしかわからないのかもしれない。
夫は陸にいるときさえ、常に揺れる沖のほうから、固定された陸地を眺めるひとになってしまった。眺めるどころか、夫自身が、揺れる波そのものに亜子には思えた。
亜子は逆に、常に揺らぎのない陸にいて、揺れ動く沖を不安に眺める。陸からも海からも、互いを隔てる距離は同じだが、立っている位置は真反対だ。眺める風景もまったく違う。亜子は揺らがない地面をありがたく思う一方で、自分も沖に出て、揺れている波間に漂ってみたいと思わないわけでもなかったけれど、時雄(引用者中:息子の名前です)を育てていくことを思えば、やはり自分が沖でなく、浜にいる人間だと思わざるを得なかった。
亜子は夢からさめたあとも、失ったもののことを考えていた。
そして、ラストシーン。救助され、船で運ばれる夫よりも先に救急車が到着してしまう。
真っ暗な沖を眺めていると、誰かの死体が、浜に上がるのを長く待っているという錯覚に陥る。あがる予定のそのかたまりを、亜子は「自分」のように思った。そして不在の夫のほうは、まだ沖にいて、真っ暗闇の海のうえに、墓標のように顔ひとつを突き出し、浜の方を黙って見つめている……。
- 作者: 小池昌代
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