わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

井上雄彦・伊藤比呂美『漫画がはじまる』

 ひとまず井上さんのまえがきと、比呂美ねーさんの「あとがきに代えて」だけ読んだ。本編は、あとで腰をすえてじっくり読む。でも、その前に『SLAM DUNK』を読むべきかな。なんせ、井上作品は『バガボンド』しか読んでないのだ。

(前略)どんなに武蔵が殺しても(またその殺し方は、心がいちいちこもった、丹念きわまりない殺し方なんですけれども)、人の死は、重くて苦しいままです。
 それでいいんだと思うんです。

 ねーさんはこのように書いている。
 なるほど、と思う一方で、正直なところ、少々違和感も。ぼくは『バガボンド』の殺戮シーンを読むたびに、重さだけではなく、とんでもない軽さ、それも奇妙でとらえどころのないような軽さ、その両方を感じていたのだ。それが何によるものなのかが今までわからなかったのだが(というよりも、深く考えようとしなかっただけ。読みがヌルいんだよね。それに比べてねーさんの読みの、深いこと熱いこと。汗顔の至りです)、ねーさんのこの「あとがきに代えて」がヒントになって、ようやくわかってきたような。
 ぼくの感じた軽さ。その正体は、おそらく死を踏み越えてまでして得ようとしている、絶対的な「強さ」という目標(「天下無双」ですな)、それが本質的に含む禍々しくも悲しい虚しさ(なんだこの表現は……)、なのではないか。武蔵がどんなに相手を倒したところで、武蔵は自分の思い描く「強さ」に到達しきれていない(今のところは)。吉岡七十人斬りの最中に体感した無我の境地のごときものも、一度我に返ればたちまち消える。どんなに求めても到達できない「強さ」という目標は、人の死の重さを易々と無にしてしまう。命の尊さに目を向けつつも、斬りつづけ、殺しつづけること。その覚悟の重さの前には、どんな死だってたちまち霞んじまう。その、霞みっぷり。これがぼくの感じていた「軽さ」の正体なのではないか。そして、その「軽さ」にも目を向けずにいられない武蔵の生き方は、何にもまして、ひたすらに重い。
 などと書いてしまいましたが、たいして読み込んでもいないのに、おこがましいかな。ねーさんごめんなさい。
 命の重さについて再考させてくれたこの作品には感謝。ありがとうございます。

漫画がはじまる

漫画がはじまる

バガボンド(28)(モーニングKC)

バガボンド(28)(モーニングKC)