わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

着ぐるみナショナリズムではなく

 六時起床。また喉が痛む。寝室には花子の猫トイレが置いてある。これを夜中に使うと、口を開けて寝ているのだろうか、砂埃を喉に受けて腫れはじめる、ということだろうか。今日から猫トイレはアトリエに移すことにした。これで改善されるかどうか。
 朝から暑い。息苦しい。それが暑さによるものなのか、喉の痛みによるものなのかはよくわからん。某不動産会社Webサイト、某自動車教習所Webサイト、某アミューズメント企業企画など。
 夜、北京オリンピックの開会式を観る。ナショナリズムの権化となるのだろうなあ、と食わず嫌い的な食傷、というと変な表現だが、中国のナショナリズムはもとより、(意図的であれ無意識的であれ)政治システムに組み込まれた(あるいは組み込まれてしまった)ナショナリズムというのがどうも受け入れられないタチなので、オリンピックなりワールドカップなりの過激な自国応援というのを目の当たりにすると、自国を応援したい気持ちは理解できるし自分もそうしたいと思う反面、昂ぶる感情にうんざりし、そこから逃げ出したくなってしまうのが常で、したがってオリンピックの開会式も通常は開催国のお国自慢的文化表現という芸術の着ぐるみをかぶったナショナリズムとなりがちな気がして、観てもしょーもない、と思っていたわけだが、食わず嫌いはよくないから、とテレビのスイッチを入れてみると、その先入観は意外にもすんなりと消えてしまい、へえ、電力の過剰使用とか花火によるCO2の大量排出とか気にならなくはないけど、表現としては、テーマが陳腐ではあるけれどそれはオリンピックだから仕方ないとして、まあ、表現手法自体はおもしろいじゃん、伝統文化とモダニズムがうまく調和してるし、と全面的ではないが肯定してしまった。ただ、個人的にはオープニングセレモニーよりも選手入場のときの各国の文化紹介だとか参加選手の紹介、そして入場する選手たちの表情(ほとんどの選手がにこやかに入ってくるが、少数で参加している国などは、使命感のようなものを背負った選手の気合いが見え隠れしたりして、そこについつい惹かれる)のほうが数段おもしろかった。