わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

伊藤比呂美『女の絶望』

「如月--えろきもの」。またまた熟年セックス相談。したくてたまらん、という悩み、そして逆に、したくない、という悩み。
 昨日の日記に、本作は小説なのかも、と書いたが、その理由。
 正確には、小説の対極にある文学形式、それが表裏一体になって結局小説になっている、という感じかな。通常、小説という文学形式は、散文を用いて主人公に起きた出来事を書く。主人公と語り手が異なる場合や、いわゆる神の視点から書かれることもあるが、ひとり、もしくは数名の主人公の行動、悩み、思考、生き方、死に方……に沿って作品世界は展開される。一方、本作は明確な語り手が存在し、その語り手のこれまでの人生や現在について語られているが、それらは実は脇役であり、主役となっているのは不特定多数の悩める人々。乱暴な言い方をすれば、フツーの人々の抱くさまざまな悩み自体が、主人公。そう捉えると本作は小説からとんでもなく遠い場所にあるように思えるが、小説とは自由な表現形式。遠いところにあろうが近いところにあろうが、貪欲に吸収してしまう性質がある。だから本作は、小説をこよなく愛する(詩も愛しているけど)ぼくや高橋源一郎さんのような人にとっては、小説なのだ。ただ、小説内のどの分野にもうまく当てはまらない、というだけの話。
 本作、ぼくは小説の対極というよりも、私小説の対極にあるのかな、と思った。わたしの日常を通じて、わたしの悩みや苦しみをなんとなく書き、なんとなく心を動かす読後感を生み出すのが私小説だとすれば、わたしの日常を通じて、わたし以外の不特定多数の他人の悩みや苦しみを明確に書き、かつそれに答えることで、作品としての、人生相談という実用性をキープしつつも、そこからはちょっと離れたところで心を動かす妙な読後感を生み出している本作は、「タ小説」とでも呼ぶべきだろう。不特定多数のタ、他人のタ、で、タ小説。
 本作の小説としての文学性はもそっと考えてみたいところだが、今日のところはひとまずここで。
 でも、詩人が発する言葉なのだから、小説と解釈できようができまいが、やっぱりこれは詩なのかな、とも思っている。

女の絶望

女の絶望

伊藤ふきげん製作所

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