「雛祭り」。deadという英単語のイメージが暴走的に膨らみ、死生観と言葉遊びの境界を行きつ戻りつする。気になった部分、二箇所ばかり引用。
死から生へ、ネガティーヴのきわみからポジティーヴなものへ転ずる。しかし言葉は性来、楽天のものだ。歴史の記述にも、過程の観念にも、楽天がとうに内在する。そうでなくてはまた生きられないところだが、しかしさしあたり、死んでるという状態とは、どんなものなのか。更生とか新生とか、死中生アリとか、そんな押し詰まったところまで行かなくても、そのもっと手前で、もっとおもむろに、じつは果も思えず、人はしばしば、死んでいるようではないか。無用の用とは言わず、自棄の心でもなく、死んでいるので、生きている、というような見当へ、もうすこし丁寧に物が考えられないものか。
死ぬとは言葉を失うことであり、ならば楽天さを失うことにもなる。死中生アリとは、死が内包する言葉という意味だろうか。死を、死に至る過程ではなく死そのものを、言葉で語ることができるのであれば、死もまた楽天的なものなのかもしれない。
もいっちょ。
世間の事にはもうすっかり疎くなっておりますので、とこれは隠当な物言いだ。世間は自分にとってもはや死んだも同然、という生き心地もおのずと、なにがしかはふくむものなのだろう。死んだも同然なのは、世間だとしても自分だとしても大いしたさしさわりもない自在さはある。まあ、よほどの隠遁者か年寄の特権に属する。しかし壮年の盛りに、ひとりの人間にとっていきなり、世界が死んだというようなことも、あり得るか。まず自分が死んだので、世界が死んだ、と考えるべきところなのだろうが、事の起る、あるいは事を体験する順序としては、世界の死んだようなのを感じて、やがて自分の死んでいることに気がつく、とどうもそんなことでもあるように思える。
世界と自分との関係の消滅を死と捉える、という考え方か。事実としての死ではなく、象徴としての死という意味だろうが。
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