移動中に、ちょこちょこと読みすすめている。散漫で、点描のような作品構成。そして淡々としつつ、時折無表情のまま高揚するというか、唐突にテンションが高まったりするのだが、そのまま未消化でムニャムニャムニャ、という妙なノリ(これが多和田さんの文体であり、息づかいなのだろう)もあって、ヒジョーに読みにくい。おもしろいのだが。
気になった部分、2カ所ほど引用。まずは、現在はドイツでアルバイトをしながら学校に通っている主人公・優奈が、日本でヴィヴィアンヌというネイティブの先生からフランス語を習っていたときの回想。
優奈が作文をクラスで読み上げると、ヴィヴィアンヌは咳込んだので、これまで知らなかった声の低い音域がはじめてみんなの耳に入った。優奈は自分の作った作文を読み上げ、意味を説明した。クラスのみんなは、人を楽しませるようなその内容に笑い、ヴィヴィアンヌは間違いに腹を立て、それ以上に、自分が書いたからというだけである文章を無条件に愛し、それをちょうど幼児が得意げに自分の排泄物を見せるように見せびらかす生徒に腹を立てた。そういう冒険は文法を習得してからにしなさい、とヴィヴィアンヌに言われ、優奈は屈辱感に絶えられず教室を飛び出した。《中略》ヴィヴィアンヌは機会あるごとに、文法は法だと繰り返していた。
《中略》
道徳的に見て申し分ない権力者が国を治めているなら法律は必要ないと、無意識のうちに信じていた。常に的を生み出し、それと闘わなければならない民主主義よりも、道徳的に申し分ない独裁者に政治任せた方が、庶民の健康にはいい。もちろん、道徳的に申し分ない支配者などありえないから、民主主義しか道はないことは認めていたが、それにしても、こちらに絶えず牙を向けてくる不愉快な法律というものをどう扱ったらいいのかは分からずじまいだった。
もういっちょ。ボルドーに旅立った優奈が、自分の存在に、そして時間の存在に疑問を感じるシーン。これが本作品の主題……なのかな。
今朝、ブリュッセルでコーヒーを飲みながら、ヴィヴィアンヌのことを思い出していた、そのおなじ優奈が、今はもうボルドーにいる。もし一つの肉体が今ここにあるとしたら、それがあそこにあったということがなぜ可能なのだろう。《中略》昨日はあそこにいた、今日はここにいる、つまり、昨日または自分が昨日と呼んでいる何かはあそこにあるということだろうか。あそこというのは本当に場所なのか。今日は常にここにあるのか。昨日と今日の間には何があるのか。こことあそこの間には夜が横たわっている、と言う人もいるだろう。それでは夜の向こう側では残されたもう一人の優奈が生きつづけているのか。そうして夜行で旅するごとに自分の数が増えて、それぞれの時間空間に一人ずつ自分のサンプルが一つ残るのか。
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