「群像」1月号。瀕死の状態における人肉食という重いテーマを扱った泰淳先生の傑作のひとつ『ひかりごけ』についての評論。人肉食を罪と決めつけ、登場人物の首のうしろに現れる光の輪は罪の象徴である、という典型的な解釈を否定し、道徳観を超えたところにある人間の本性の断片こそがこの光の輪の正体、とする新しい(とういわけでもないかな)解釈。あの光の輪を、作品構成上の「役割」として捉え直し、登場人物の立場や視点という切り口から緻密に分析し直している。
ぼくは『ひかりごけ』を2005年11月に読んでいる(とこのブログにあった)。そのときの感想を引用。山城さんとは似ているようでまったく違う読み方をしていた。今でもこの考え方は変わらない。
泰淳には、人食いが非道徳的だとか極限状態にあるなら生きるための人食いもやむを得ないとか、そんな考察を物語の中で展開しようというつもりなどさらさらない。そんなことを超越して、そういった状況も含めて、大なり小なり罪を犯しつづけなければ命をつなぐことができぬ悲しい存在である人間、いやすべての命あるもの、そしてそれらの連関としての世界、その真理を見極めたいという大きな視点。それが泰淳のあらゆる作品の根底に流れる大きなテーマだ。ラストシーン、部下の人肉を喰った罪に問われた船長が裁かれる法廷の場面で、船長は人肉を食べたことのない人、あるいは自分の肉を食べられたことのない人に裁かれることを「我慢している」という。裁くなら、自分の肉を食べてほしいと主張する。この発言で裁判を混乱に陥れた彼の要望は、どこかゴルゴタの丘のキリストを思わせる。そして、船長の頭部は、人食いをしたものだけがそうなるといわれている、緑金色の光を放ちはじめる。語り手がマッカウシの洞窟で見た「ひかりごけ」のように。この光の輪は、船長が、人食いの善悪を超越したレベルで、他の生命を食らうことでしか自らの命を維持することができないというあらゆる生命の真理であり「業」を、宿命的なまでに苛酷な形で体験した者であるという証である。彼は人肉を食ったことで、生命の悲しみを本質的に理解した、という一点だけにおいて、裁判官よりも検事よりも弁護人よりも、すこしだけ救いに、そして神に近づいている。彼の行いが間違っているか、間違っていないかはここで関係ない。
人間とは、宿命的・原罪的な悲しさを背負いながら、その悲しさをすこしずつ理解することで真理を見つけ、真理の向こう側にある何かを探すために生きる。それもまた悲しみなのかもしれない。それでも人間は生きつづける。泰淳は、そんなことを書きたかったのだろうか。
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