わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

椎名麟三「深夜の酒宴」読了

 なるほど、タイトルはこうつながっていくのか、と納得できたものの、非常に後味の悪いエンディング。冷静な視点から戦後の社会情勢の悲愴さや極限状態に置かれた自分自身を描くというのは戦後文学の大きな特徴だと思うが、本作は特に顕著。職場に共産思想を植えつけ広めてしまった結果、職場が崩壊させてしまった主人公は、雇用主でありアパートの大家でもある仙三から生地獄のような扱いを受ける。不当なほどに安い給与が彼を追い詰める。しかし、それでも主人公はそのアパートを離れようとしない。絶望と向かい合わせになることでしか、自分は生きることができない。そう考えているように読めた。仙三に責められ、殴られた直後の主人公のモノローグに、それが顕著に現れていた。ちょっと長いが引用。

 そのとき、突然僕は時間の観念を喪失していた。僕は生れてからずっとこのように歩きつづけているような気分に襲われた。そして僕の未来もやはりこのようであることがはっきりと予感されるのだった。僕はその気分に堪えるために、背の荷物を揺り上げながら立止まった。そして何となくあたりを見回したのだった。すると、瞬間、僕は、以前この道をこのような想いに蔽われながら、ここで立止まって何となくあたりを見回したことがあるような気がした。僕は再び喘ぐように歩き出しながら、その真実さを確認した。この瞬間の僕は、自分の人生の象徴的な姿なのだった。しかもその姿は、なんの変化もなんの新鮮さもなく、そっくりそのままの絶望的な自分が繰り返されているだけなのである。すべてが僕に決定的であり、すべてが僕に予定的なのだった。そこにみじんの偶然も進化もありはしないのだ。絶望と死、これがぼくの運命なのだ。世の中がかわって、僕がタキシイドを着込み、美しい恋人と踊っていても、僕は自分の運命から免れることは出来ないであろう。たしかに僕は何かによって、すべて決定的に予定されているのである。何かにって何だ----と僕は自分に訊ねた。そのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだった。

群像 2010年 04月号 [雑誌]

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私の聖書物語 (中公文庫BIBLIO)

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