「群像」5月号掲載。文学の、いや芸術の本質である「わからない」ということについてを、武田泰淳の「非革命者」という短篇をベースに語っている。そうなんだよな。文学は、わけがわからない。わけがわからないことを楽しみ、あるいは真剣にそれと対峙することのできるニンゲンが、現代には少ない。あらゆる行動が「消費」すなわち経済行動として位置づけられてしまうと、わからないことは非効率的・非経済的であり、これは資本主義の枠組みの中では自然と淘汰されてしまう。だから芸術は、そして文学は、その大半が淘汰される……。現在売れている小説と呼ばれているものの多くは、物語ではあるが、文学ではないと言えるのかもしれない。
……と激しく共感する一方で、そうでもないじゃん、とも感じた。わからないことと真剣に対峙するニンゲンは、少なからず確実に存在している。手前味噌だけれど、ぼくもその一人だと思う。そして現代芸術に携わる多くの人たちもそうだ(彼らは自分たちを決して「アーティスト」とは語らない。でも、表現者という言葉は使うかもしれない)。わからないことをわかろうとし、結局わからないままになる。わからないことを表現しようとし、結局わからないままになる。わかっていることを自分なりに表現しようとし、結局わからないことになる。こんな姿勢をもつ人がいなくならない限り、芸術は、そして文学は、細々とではあるかもしれないが、決して絶えることがない。だから源一郎さん、嘆かないで。
源一郎さんは、文学のわからなさを解き明かそうとしているようだ。その過程、わからないようでいて、実は案外わかりやすい。答えはないのだが、わかりやすい。さて、果たしてコレは文学なのだろうか。芸術なのだろうか。……むずかしい。わからない。
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- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
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