わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉『やすらい花』

「朝の虹」読了。旧友の死を十年経ってから知らされた男たち。その死をひきずるようにして(と読める)、死んでゆく。老いではない。常になんらかの形で死と向かい合い、それをじっと見つめていた者たちが、死にざまもわからぬままに、死んでゆく。古井さんがモデルらしき語り手の男だけは、身体に大きな不調を来し、大きな手術を受けながらも、生きる。生きつづけている。死んだ友人たちを知る共通の知人らしき男と偶然出くわすことになるが、その男もまた、死を見つめながら生きている。彼の感じる、音が聞こえているのに聞こえない、という感覚は、死を見つめるというよりは、死の音とともに生きているような感覚に近い。虚だの空だの、そんなものを感じ取る力が、死が近づくにつれて少しずつ身に付いている、と言えるかもしれない。
 いちばん気に入った部分を引用。男たちと死の関わりあいからは少しはずれているが、死すらも笑い飛ばそうというシニカルなユーモアが、重苦しい作品世界にひょいと顔を見せた、妙なエピソード。

 年寄りは寝ている間に、魂が楽々と抜け出して、あちこちほっつきまわりやがる、からだのつなぎとめる力が弱かったもので、と昔、老人が言った。心配じゃありませんか、と私は冗談に乗ったつもりでたずねた。なあに、俺の知ったことじゃない、寝ている間のことまで面倒を見きれるか、と老人はそっぽを向いた。しかしその、知ったことじゃないという俺は、何処にいることになるのですか、と若いので突っ込んだ。はて、何処にいるか、それも知ったことじゃない、と老人は答えて、素麺が饅頭を喰っているところを、端から莫迦莫迦しいと憤慨して見ているようなものだ、とわけのわからぬことを言って笑い出した。

やすらい花

やすらい花

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