1章目はメディア論。
ネアンデルタール人とクロマニヨン人の決定的な違いは、後者は芸術を解していた点、そして価値交換を行っていた点にある、という人類学者などの考察から、三浦はクロマニヨン人には「他者になることができた」と考える。ちょっと長いが引用。
交換の期限はおそらく再分配にある。たとえば人類学者の山極寿一は、類人猿と人間との違いは狩猟採集したものを巣に持ち帰って再分配するか否かにあると言う。その場で食べたいという欲望を抑え、他者が獲得したものと合わせて、それらを分配し直すことをするか否かにあるというのだ。会食は人間にとっていまもきわめて意味の濃い行為だが、会食すなわち再分配ができるようになるには、他者の気持ち、他者の欲望を理解できなければならない。というより、他者になってしまわなければならないのである。
現生人類の飛躍の鍵はここにあるように思える。クロマニヨン人はネアンデルタール人をはるかに凌駕して、他者になることができたのだ。他者に、すなわち自分自身に。
言うまでもなく、自分を意識するとは他人の目で自分を見るということである。他人の立場に立たなければ、自分というものはありえない。自分になることと他人になることとは、一つのことであって二つのことではない。逆に言えば、自我とは、自分というひとりの他者を引き受けることにほかならないのである。ただ人間だけが名づけられ、その名を自己として引き受けるのだ。この授受にすでに交換が潜んでいる。
最後に触れている「名」すなわち名前nameとは、人間社会におけるもっとも基本的なメディアだと三浦は考えているようだ。なるほど納得。以下に普段の自分がメディアというものをしっかり考えていなかったが露呈してしまい汗顔の至り。メディアにかかわる商売してるんだけどねえ。
- 作者: 三浦雅士
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