わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

三浦雅士「孤独の発明」(11)

 4節目。途中で眠くなり訳がわからなくなってしまい、半分くらい読み直した。とほほ。フッサール現象学的還元はカントの超越論的還元に至るための出発点でもある、ということ。そしてこの超越論的還元の主体こそが孤独の本質、正体でもある。この節のラスト、どういうわけか励まされているように読めてしまった。引用。

イデーン』第一巻の刊行は一九一三年だが、第一次大戦の戦中から戦後にかけて、フッサールが多くの若者を惹きつけた----ハイデガーからレヴィナスまで、サルトルからメルロ=ポンティまで----のは、その思想の内容であるよりも、その思想の方法、激烈というほかないその思考の流儀が引き寄せるこの荒涼とした光景にほかならなかったのではないかという気がしてくる。
 このような荒涼とした光景は、しかし、何も超越論的還元をほどこすまでもない、もともと人間に与えられた条件ではないか。いや、人間は日々、超越論的還元を生きているのではないか。ハイデガーだけではない。若者たちはみなそう考えたように思える。現象学が甚大な影響を与えたのは、この荒涼とした光景がじつは見慣れたものだったからだ。どこにおいてか。芸術において、文学において、歴史においてである。

 哲学という学問、あるいは思想が、時代を超えて存在しつづけなければいけない理由のすべてが、この一文に含まれている。そう思った。

群像 2010年 11月号 [雑誌]

群像 2010年 11月号 [雑誌]

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