わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

三浦雅士「孤独の発明」(14)

「人称の磁場」。2章分だけ読んだ。吉本隆明『言語にとって美とはなにか』に対する寺田透の批評から出発し、ふたつの一人称「私」と「わたしたち」の違いについて考察。サールを引用しながら、「わたしたち」は「私」に内包される、という考えを提示している。
 『言語にとって…』は、『共同幻想論』とまとめて大学生のころに必死になって読んだ。サールは読んだことない。
 ちょっと気になる部分を引用。

 死ぬのは他人ばかりと言うが、「私」には原理的には死は存在しない。「私」は死なない。死を理解するということは、したがって「私」が「彼/彼女」でもありうることを理解するということである。「私」はあ「あなた」と「わたしたち」を形成し、「彼/彼女」を析出する、すなわち排除する。「彼/彼女」は眺められ、見つめられるべきものなのだ。だが、その「彼/彼女」もまた「私」でありうる、いや「私」にほかならないことを知ったとき、人は強烈な恐怖に、歓喜に、要するに感動に襲われるのである。
 人は自分もまた死ぬだろうことに感動しているのだ。

群像 2011年 02月号 [雑誌]

群像 2011年 02月号 [雑誌]

三浦雅士の作品はこちら。