わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

三浦雅士「孤独の発明」(15)

「群像」3月号掲載。章タイトルは「言語の視線」。わたしを見つめるわたしの視線。作品のなかを行動するわたしと作品世界の全体を語るわたしの共存。わたしの行動はわたしの語り=視点に含まれる。つまり、わたしはわたしを他者=死者として語ることができる。語るわたしは死者で、語られるわたしは生者。あるいは、語るわたしこそ生きていて、語られるわたしは死んでいる。そんな、一見奇妙な世界構造を可能にするのが小説であり、文学であり、言語である……そんなふうに理解したのだが、どーなんでしょ。前号からひっぱっているよしもとばなな『彼女について』(未読です)、その父である吉本隆明の『ハイ・イメージ論』(昔読んだなあ)と初期の詩「廃人の歌」(『転位のための十篇』収録。こっちは読んでない)そして安部公房(実はあまり読んでいない)、大江の『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『M/Tと森の不思議の物語』(全部好きな作品)、津島佑子『笑いオオカミ』(未読)。
 気になったところを引用。『彼女について』の作品の視点についての考察の部分。

「私」は孤独だ。だが、全世界を包含して、愛に満ちて、孤独なのだ。「私」はこのとき「わたしたち」よりはるかに大きい。一と多は量の違いではない。それは次元を異にしている。それは乗法の世界における一と、加法の世界における一のように違う。世界に一を掛けても世界はもとのままだ。それは世界に一を足すこととはまったく違う。
 世界に一を掛けても世界はもとのままだが、しかし、何かが違ってくる。それは「私は、私だ」と呟くのに似ている。むろん同語反復、トートロジーにすぎない。けれど、この同語反復は、圧倒的な迫力をもって、世界の商店としての「私」を浮かび上がらせるのである。「私」は「私」を見、次に「私」に見られている「私」を感じる。「私」を見る「私」は、世界の上方から「私」を見る巨大な「私」--乗法の世界における一--であり、「私」に見られている「私」は、その視野のなかで健気に立ち動いている小さな「私」--加法の世界における一--なのだ。

 つづいて、デリダ=サール論争についてのなんやかんやの説明のあとにあった部分。

 繰り返すが、言語の条件は他者の身になるということである。他者の身になるためには自己を離れなければならない。自己を越えなければならない。言語そのものが超越論的なのである。人称がすでにその事実を語っている。だが、他者の身になるとは、裏返せば、他者が自己の身になるということである。他者とは母だが、突きつめれば言語にほかならない。母は子に自己を--乳すなわち食物を--与えるが、それは言語と同じものなのだ。この、食物とともに与えられた言語が子の自己なるものを形成してゆくわけだが、形成された子の自己は、ある段階で、逆に自己が言語を所有していると思うのである。
 この逆転の最初の気血が独我論であることは指摘するまでもない。

群像 2011年 03月号 [雑誌]

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彼女について

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ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

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ハイ・イメージ論2 (ちくま学芸文庫)

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ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

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吉本隆明詩全集〈5〉定本詩集 1946‐1968

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吉本隆明詩全集〈1〉初期詩篇

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吉本隆明代表詩選

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密会 (新潮文庫)

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方舟さくら丸 (新潮文庫)

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万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

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同時代ゲーム (新潮文庫)

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M/Tと森のフシギの物語 (講談社文庫)

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笑いオオカミ

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