「群像」9月号掲載。「さびしいと いま」「待つ」「泣いてわたる橋」という詩三篇と、エッセイ「ペシミストの勇気について」。前者は底なしの悲しみに沈み込みながらも、なぜか光が感じられる戦後詩の傑作。自暴自棄な希望というか、世捨て人の希望というか。
エッセイのほうは、ソヴィエトに抑留され強制労働をしていたころの体験談。鹿野武一という男性(彼も元日本兵で抑留され強制労働に従事していた)が貫いていた厭世的・悲観的ながら反抗的で尊厳に満ちた行動について、細かに描かれている。
戦争、そして戦後という立場や価値観が完全に逆転してしまった特殊な状況を、石原は鹿野の行為を通じて「加害と被害の関係性と、そこからの逸脱」として捉えている。ちょっと長いのだが、引用。十分に現代性がある、というか、イヤでも2011年の日本に当てはめて考えざるをえないような、スサマジイ普遍性を持った名文。優しさも偽善もない。あるのは意志、ただそれだけだ。
おそらく加害と被害が対置される場では、被害者は〈集団としての存在〉でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。費が韻お何おける加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし加害の側へ押しやられる者は、加害において単独となる危機にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼は常に疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。
私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその〈うしろ姿〉である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。
そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。……(以下略)
一番の(逆説的)ペシミストは、鹿野武一ではなく、石原本人なのかもしれない。
はじめて石原の作品を読んでみて、強い衝撃を受けた。詩もいい。言葉の美しさと深遠さ、そして軽妙さが逆説的に重くのし掛かってくる。詩集、買ってみようかしらん。
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