比較的初期に書かれた短篇集。ひとまず読んだ巻頭作「修験」は昭和四十九年の作。『枯木灘』『岬』に登場した秋幸のその後を、そして中上自身を彷彿とさせる男が、家庭内暴力の果てに妻と別居することになり、故郷の熊野の修験者たちが歩いた山道を、蝉時雨のなか黙々と歩き回る。そこで彼は、幾度となく死者の世界との境界に迷いこむことになり……。
自分は中上の作品に登場する人物のような生き方はまったくしていないというのに、どんどん惹かれてゆくのはなぜだろう。そして文体のすさまじさ! 魂と肉体のアンバランスさ、そしてこの世とあの世の混在が生む、奇妙な荒々しさ、そして美しさ。
一番気に入った部分、引用。
彼は歩いた。蝉の声が空になった体の中で響いた。すべて、幻覚だ、すべて悪い夢だと思った。その幻覚、その悪い夢を見たくて、彼は毎日を生き、この熊野山中に入ったと言えるのかもしれない。光の差し込まない杉また杉の山中の、湿気をはらんだ冷たい空気が、毛が生え固くなった皮を一枚そいだ彼のむきだしの肉に直接当るようで心地よかった。疲労に疲労を重ねるその事が、柔道や相撲の人工的に体系づけられたものとは違って、彼には心地よかった。彼は岩の割れ目から湧き水を飲んだ。ちょうど一つの山の頂上にあたるらしい平坦な杉木立に出た。そこから、山また山の連なりがのぞめた。ひときわ大きな杉の根方に小石が積み重ねられ、花を飾る竹筒らしきものがあった。彼は、そこに坐り込み、いつの時代かわからぬがたれかこの道を歩く者が、ここで石を重ね花を供え経を読んだらしい跡を見ながら、そのうちまどろんだ。日はまだ空に有り、山の連なりが白く明るく輝いていた。

- 作者: 中上健次,柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1993/08/04
- メディア: 文庫
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