わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

藤谷治「鷗よ、語れ」

「新潮」10月号掲載。この作家のこと、まったく知らない。だが、書き出しを読んで魅了されてしまった。よくわからないままに、読んでみる。書き出しの一部を引用。

 人はだれでも、自分の手でしか触れることはできない。自分の目でしか見えない。自分の耳でしか聞けない。それなのに、なぜ歴史はあるのか。
(中略)
 私のこれまで書き、今書き、これから各言葉のすべては、遠からず滅びるものである。滅びると知りながら書かれるもの、すなわち稗史である。(中略)
 人の手が触れられるものは小さい。人の目が見られるところは狭い。人の耳に聞こえる音は近い。自分の手足が人と大差ない小ささしかなく、自分の耳目は他人のそれと変わりなく卑近をしか捉えない。稗史の末裔である小説はここから始まる。

 まだまだ長く引用したいのだが、ひとまずこのへんで。歴史の曖昧さ、言葉のはかなさ、そして人間の矮小さから、いったい何が語られるのか。

新潮 2012年 10月号 [雑誌]

新潮 2012年 10月号 [雑誌]

藤谷治の作品はこちら。どれがおすすめなんだろう。本作がおもしろかったら、単行本も読んでみよう。