わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

大江健三郎「晩年様式集」(最終回)

「群像」8月号掲載。長江古義人という自身をモデルにした小説家とその家族、知人たちの、たくさんの軋轢やら不満やら誤解やらを、大江自身の過去の作品を繰り返し作中に登場させたり引用したりしながら、受け入れるというよりは、問題に別の問題を上塗りしながらほったらかすというような、非常に未消化な感じのするやり方で変えていく、なんだか変な小説。と書くと一読の価値もないような気がしないでもないが、これが脱原発という風潮の現れた現代を舞台にしていることが、ひょっとしたら重要なのかもしれない。大江さんは、もういくつも小説を書くことは寿命的にかなわないと自覚しつつも、過去の自作を批判しながら受け入れることで新作を書く、書きつづけるという方法をとっているが、これは核という技術と日本社会の関係に少しだけ似ているのかもしれない、と思った。ま、大江作品は自己批判を通じてひとまず建設的な道をなんとか見つけ、あるいは切り開こうとしているのだが、核のほうは、批判されながらもそれとはまったく別の次元の話として、未来にわたって技術を残し活用しつづけようとする(人たちがいる)という点が根本的に異なってはいるのだけれど。
 珍しく、ラストは詩で締めくくられている。この詩の最後を飾る言葉の意味は、やはり脱原発という状況を頭に入れて読むべきなのだろう。
 晩年の小説家という状況を逆説的に活用することで、家族や社会の未来を提示しようとした意欲作だと思う。ちょっと回り道が過ぎて、おまけに全体的には難解な感じがするけどね。それに、他の読み方もあるような気がしてならない。作者の存在があまりに大きすぎて、どうしてもそっちに引っ張られた読み方しかできなくなってしまうからねえ。

群像 2013年 08月号 [雑誌]

群像 2013年 08月号 [雑誌]

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