イエスの死=キリストの贖罪は、神との贈与関係から語ることはできない、と著者は説明する。
キリストは、互酬的な贈与交換にこそ正義の原形があるとする論理を停止させようとしている。(中略)
キリストの死によって、罪が贖われたというとき、われわれは、普通は、互酬的な贈与の関係の中で、罪と罰とのバランスがとれ、帳尻があった、と考える。しかし、キリストの死による〈贖罪〉とは、そのような意味ではない。それは、一般の「贖罪」が前提にしていた「均衡による正義」の論理そのものが執行してしまう、ということだったのである。だから、キリストは律法を終わらせた、と見なすことができるのだ。
なるほど。以前から、どうしてキリストは民衆の罪のために死ななきゃいけないんだ、その罪をつくったのは神だし、キリストは神の子なのだし、と思っていたが、ちょっと納得。
さらに著者は、キリストの死を「信者の共同体の生成」にまで結び付けて考える。
神と関係しようとしていた、信者=人間たちのコミュニカティブな志向性は相手を失って、結果的には、それぞれに神へと語りかけていた信者たちの集合性そのものへと回帰するほかない。したがって、論理的には、神であるところのキリストが死んで、消滅したことによって、信者たちが普遍的に参加しうる共同体が実現するはずだ、この共同体は、神=キリストが死んでできあがった空白を埋めるように実現する。要するに、神の代わりに、信者の共同体が得られるのだ。(中略)この信者の共同体こそが、キリスト教神学の用語で、「聖霊」と呼ばれるものではないだろうか。
ある事件が普遍的な宗教へと変質するには、こういった触媒が必要なのかもしれない。
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