わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

CMに見るAppleとGoogleの、あるいはiPhoneとAndroidの違い



 最近話題になっているGoogle/AndroidのCMが、とても気に入っている。クールでスタイリッシュ、ユーモアも感じられ、そしてなによりも「つながり感」がある。

当然だけど、CMの方向性は違う

 Appleも自社広告が非常に巧みだが、Googleとは根本的に性格が異なるようだ。AppleのCMは、使い方の多様性をアプリを通して語る傾向があるように感じられる。新発売期は、新しい端末が出ました、こんなハードです、(このアプリが最初から入っているから)こんなことができるようにもなりました、これも、これも、これもできます、ほら、前より便利で楽しくなったでしょ? という感じでスタートし、販売のスタートダッシュが終わると、ユーザーごとに異なる(サードパーティ製の)アプリを使い、それぞれが異なる使い方をしているシーンを見せるCMへと変わっていく。
 一方Google/Androidは、使い方の多様性を「検索」で語り続けていた。どんな検索キーワードを入力するか。そこだけ考えれば、あとはすべてをGoogleが教えてくれる。そんな世界が提示されていた。しかし、今回の広告キャンペーンでは、なぜだろうか、それをやめてしまっている。ユーザーの多様性だけをただひたすらに、そしてとことん楽しくおしゃれに語る内容に変わってしまった。そして、これがメチャクチャにクールなのだ。個人的に気に入っているのは、ベイビーレイズ、相撲の少年、そして楳図かずお大先生。みんなカッコイイし楽しそうだ、検索をしていないというのに。しかしこのCMで注目すべきなのはこの点だけではない。紹介された各ユーザー同士のつながりにはCMでは触れられていないのに、なぜか全員がつながっているような錯覚を覚えてしまうのだ。これは、AppleのCMにはまったく感じられなかった。

ビジネスモデルが違えば、CMもそりゃ変わるよね

 で、ぼくの説。つながりを感じるか否か。この違いは、企業姿勢の、そしてビジネスモデルの違いによるものなのではないだろうか。Googleはオープンだ。サービスは基本的に無料提供で、どんなOSからでも同様にサービスを利用できる。つまり、社会全体がGoogleで緩やかにつながっている。というか、つながりやすい状況をGoogleが自らつくりだし、みごとに成功しているのだ。自由で充実した社風やオフィスが時折マスコミで紹介され、隠されることはない点も「オープンさ」の現れだろう。一方、Appleはすべてのサービスを自社で囲い込もうとする。OSは無料で提供されるようになってきたが、Apple製の端末でしか使えない。徹底的な秘密主義もつらぬいている。そのかわり、スタイリッシュだ。こういった姿勢の違いが、CMにも現れてくるのではないだろうか。

ぼくがiPhoneを使う日は来ない

 ぼくは「Mac Power」というMac専門誌の編集部にいたことがあるくらい筋金入りのMacユーザーなのだが、スマホXPERIAを愛用している。最近のAppleの閉鎖的で自社になんでも取り込もうとする姿勢に反発したくてこういうことをしているのだが、使いやすさやアプリの豊富さ、アプリの完成度という問題はさておき、端末としてのおもしろさは、確実にAndroidのほうが上だと感じている。だが、やはりiPhoneは気になる。AppleGoogleのようなオープン性を謳い出したらぼくもiPhoneを使いはじめるのかもしれない。だがだが、そんなAppleAppleじゃない。おそらく末期症状に陥らないかぎり、Appleはオープンにならないだろう。じゃあ、いいや。ぼくはずっと、スマホAndroidを使いつづけます、たぶん。