わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

鷲田清一『〈ひと〉の現象学』

「5 私的なもの 所有の逆説」。

 著者は、「わたし」という表現は誰もがそれぞれに「わたし」であることの了解を前提にしている、つまり、人が「わたしのこころ」「わたしのからだ」というとき、それはいわば〈制度〉化された表現であり、本質的には「わたしのこころ」「わたしのからだ」は、本当はわたしのものなのかどうか、という問題を常に抱えている、と考え、これをこの章の出発点んい設定している。ちょっとわかりにくかもしれないが、「あなたのカラダはあなた一人のものじゃないのよ」というよく聞く表現を考えれば理解しやすい。しかし、一方で人は、常に自己の精神や思考や肉体を、自己の所有物として常に認識している。自己を自己の所有物という概念として捉えている、ということは、自己を常に客体的に認識しているということになる。しかし、自己とは主体的な存在だ。大きな矛盾が生じてしまうことになる。

 「わたし」の存在はわたしのものであるということは、個人の基本的な権利であるという考え方を、著者はジョン・ロックを引用しながら紐解いていく。自分は、自分の「過去」(の体験や思考や肉体の成長や…)を所有していると考えることで「自分が自己を所有している」ということになる、考え方、なのかな。この「過去」には、当然ながら自分の「能力」が含まれている。わたしには○○ができる(というアイデンティティ)。これを社会的価値に変換し一般的に認識しやすいものにしているのが、「資格」だ。現代社会は、この「能力」や「資格」を測ることで人の価値を決定づけ、組織(あるいは社会構造)に組み込み、経済活動をはじめとするさまざまな社会を動かす。この「能力を測る」ことこそが現代社会のエンジン、ということになる(ちなみに、この「能力を測る」を補完する存在が、能力差を埋めるという逆の方向に機能する「福祉」という制度)。えーと、要するに、現代社会は、「自己を自己の所有と考えることの矛盾」をはらんだまま、自己所有を端とした考え方である「能力」によって動き成長しつづけている、ということになる。この矛盾について、著者はこの章では具体的に明示していないのだけれど、ぼくはとても危険で重要な問題だと感じた。この矛盾の論拠なき暴力的な否定と能力至上主義が危ういバランスで共存しているのが、現代日本なのではないか、と思って(というか連想して)しまったからだ。

 著者はこの章をこんなふうに締めくくっている。要するに、結論を出していないんだよね。

 

 しかし、ひるがえって、所有は所有として最後まで貫徹できるものなのかどうか。自由であるというのは、何ものかについての所有権を、あるいは自己自身についての所有権をもっているということなのかどうか。

 こうして、〈所有〉の逆説をめぐり、わたしたちは、〈自由〉の問題権に入ってゆくことになる。

 

 

<ひと>の現象学

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