わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

大澤真幸「〈世界史〉の哲学 近世篇17 知性と経験」

「群像」2015年5月号より。
 なぜキリスト教においてのみ原テキストの「転移」が生じるのか、そして宗教改革ルネサンスの科学革命はなぜおなじ社会的・文化的空間において共存できたのか、という二つの疑問を出発点に、今回の論考はスタート。正教からカトリック、そしてプロテスタントに至る道のりは、原テクストの一体化→原テクストの外化・疎外化→原テクストの内化…という経路をたどっていく。
 中世カトリックが一般信者の原テクスト閲読・解釈を禁じたのはなぜか、という新たに生じた疑問については、宗教的な真理(神智)と諸個人の経験(人智)とは分離しているべきものであり、これを同一化してしまうと、唯一絶対の神が苦悩するという矛盾が生じてしまうから、と分析している。この「知性と経験の分離」の廃棄を提唱したのが、その後に登場するプロテスタント、ということになる。
 この視点から、著者は宗教改革と科学革命の連動性を「真理と経験の分離」に見出す。経験を重ねることで真理に到達しようとするのが科学の本質だからだ。
 なるほど。カトリックは現代においても頑なに科学を否定したり権威主義的に同性愛などを排除しようとする傾向があるが、こういった思想的背景が脈々と受け継がれているから、ということなのかもしれない。
 イスラームについてもそうだが、(思想の)歴史を学ぶと、なぜ現代においてこんなややこしい問題が生じてしまったのかが、少しはわかってくる。もっとも、解決策はなかなか見出せないのだけれど。

 

群像 2015年 05 月号 [雑誌]

群像 2015年 05 月号 [雑誌]

 

 

 

 

<世界史>の哲学 イスラーム篇

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<世界史>の哲学 古代篇

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<世界史>の哲学 東洋篇

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<世界史>の哲学 中世篇

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