「群像」2015年8月号掲載。前回で言及し問題提起していたヨーロッパにおける王の身体の二体論(自然的身体/政治的身体)がなぜ発生したのか。そのルーツを、著者は絵画の「遠近法」に読み取ろうとしている。西欧において絵画とはキリスト教の説話や教えを描くもので、古くは平面的で古代の壁画のよう、そして天があり人があり大地があり、というヒエラルキーのようなものを強く意識した平面的な描き方だったのが、ある時期を境に遠近法が確率され、説話や教えをモチーフとしながらも、写実性を高めていくことになる。この宗教画における遠近法と、プラトンから西欧に根づく思想の一つと言ってもいい「イデア」を併せて考えると、答えが見えてくる…らしい。ちょっと引用。
さて、それならば、遠近法によって現れるがままの対象が描かれているとき、イデアの水準はどこに行ってしまったのだろうか。もはや、イデアの実在は前提にされていないのか。普通は、そのように説明される。しかし、そうだとすると、現れていることを繊細に、その出来事性のさなかにおいて描こうという芸術の欲望は、どこから出てくるのか。なぜ、それらの〈現われ〉は、描くに値するものとして、芸術家に見えるのか。
実は、このような場合にも、なおイデアの水準があるのだ。どこに? 減少から隔離された超越的な世界にあるわけではない。イデアは〈現われ〉そのものとともにあるのだ。〈現われ〉は、常に同時に、〈現われを超えたもの〉を伴っている。つまり、〈現われ〉には、一種の自己否定性が随伴しているのである。この自己否定性が、イデアに対応する。
弁証法的な考え方でイデアを捉える、ということはわかるのだが、この思考方法/世界認識と国王二体論のつながりは、正直よくわからない。というか、それは次号みたい。