「群像」2016年6月号掲載。
富岡多恵子による私小説論の読解。私小説作品として、大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』、つげ義春『つげ義春日記』、阿部昭『緑の年の日記』などを、私小説を書かない、あるいは自分自身を作品の深層に落とし込むことで新しい物語を創造しつづけた富岡らしい視点から分析している。寓話性と私小説の問題、あるいは物語性と私小説の問題は、私小説が単に「わたし」の日常を語る作品ではなく、小説家である「わたし」が「小説家である(あるいは小説家にこれからなる予定の)わたしの日常」を描くことで成立するジャンルであると佐々木は主張している。うんうん。
大江健三郎の、息子を扱った一連の作品が表層的には私小説性を感じないのは、日常を通じて寓話性や物語性を出そうとしているからであって、小説家の(障害を持った息子との)日常を描くという私小説的方法論はあくまで方法でしかない、というか、一般的な私小説とはまったく異なる地点をゴールとしているからなのだろうなあ。そういう意味では、大江健三郎は「半・私小説作家」と言えるのかもしれない。