「群像」2017年3月号掲載。
ナラティブが、一人称から気づけば三人称に変化している、あるいはその逆の変化が起きることをここでは「移人称」と呼び、こういった技法が近年の小説にたびたび登場する傾向を、柄谷行人や渡部直己の評論を引用しながら分析している。小説の大きな魅力であり作品の中心にもなっていた「描写」が、映画などの動画映像芸術の登場により小説で軽視されるようになり、代わりに「語り」という小説ならではの技巧が重視されるようになった、ってことのようだが、確かにそれは納得。語りに限らず、現代作家たちが小説にしかできないことをやろうとしている、ということなのだろう。その最先端が八十年代の高橋源一郎であり、村上春樹であり…。保坂和志は描写という技巧を現代という時代背景の中で変質させてしまった、って感じかな。