大分前に買ったのだけれど、しばらく積ん読してしまった。
朝日新聞の「折々のことば」を担当している臨床哲学者が、震災時などに若手を中心としたアーティストたちが、芸術は社会のつまはじき的な意識を心のどこかに抱きつつも作品やボランティアを通じて社会参加していった、ある種のムーブメントとも呼べる現象を分析している。その出発点となっているのが、2001年に発表された川俣正というアーティストの著作『アートレス --マイノリティとしての現代美術』にあるこの文章だ。孫引きになるけど引用。
アートが社会的に何の役にも立たないことにおいてのみ、社会に役立つという逆説的な意味合いから、それを引き受けつつ、もう少し実践的な場でその存在のリアリティを確かめる方向に来ているのではないかと思う。
この逆説がクセモノだ。「何の役にも立たないこと」が現代芸術を指すことは明白だし、実際、現代芸術の美術展に行くと、美という観点からの観賞を激しく拒絶され、社会的な問いかけがそこにある、と主張されてもそれが独りよがりにしか思えず、またそれが社会のシステムの一部あるいは影響を与える異物として確実に機能するとも思えず、そのすべてから孤立したような感覚にどうしても違和感を覚えてしまうのだが、そんな現代芸術のあり方が、どうやら東日本大震災という人類史に残るであろう大災害を気になのか、それとももっと前からなのか、変質してきている。この動きには興味がある。ひょっとしたら、インターネットを媒介にした人間同士のゆるいつながりや、ネットやPCを含むテクノロジーの進化によってコミュニケーションにタイムラグがほぼなくなり世界が均質化し、社会のあり方そのものが変質しつつあることなども関係している、のだろうか。まだ第一章めを読んだだけなのでそこまではわからないのだけれど。ヒントは、第一章め「「社会」の手前で」の後半の、この部分にあるような気がする。ちなみに、引用中にある「彼ら」とは、鷲田が関わった大阪での管理者不明な地下空間を利用したアートプロジェクトの参加メンバーのことだ。
集団を、内部に向けて終結させるのではなく、未知のものへと開いてゆくこと。たがいに差異を深く内蔵したまま、ゆるやかではあるがけっして脆くはない紐帯をかたちづくること。そういう〈未知の社会性〉の芽生えに、〈自由〉の新しいかたちの生成に、彼らは賭けていたのではないか。
アートレス―マイノリティとしての現代美術 (ArtEdge)
- 作者: 川俣正
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 2001/05
- メディア: 単行本
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