六時起床。背中の痛みは昨日よりひどくなっている。おとなしくしておこう、と観念しつつ、昼寝したり、本を読んだり、と気ままに過ごした。幸いなことに、雨降りでランニングもできない。この背中の状態で晴れていたら、悔しさは一層大きくなっていただろう。妻は妻で鼻炎がひどくてしばらく横になっていたから、二人でどこかに出かけよう、という気にもなれず。まあ、こんな日があってもいい。
読書日記にも上げたが鷲田清一「所有について」(1)、そして柄谷行人「『マルクスその可能性の中心』英語版序文」(ともに「群像」2020年3月号掲載)。鷲田さんはヨウジヤマモト論がきっかけで読みはじめ、好きになった哲学者。朝日新聞の「折々のことば」のネタの幅広さにはいつも感服させられる。柄谷行人、序文とは言え新聞の寄稿文や書評以外で読んだのはひさしぶりだ。大学生の頃、『マルクスその可能性の中心』を読んでコミュニケーション論、あるいは言語の本質を探る手がかりとしての(というまとめ方はかなり問題がある気がするが)マルクスという考え方に圧倒され、『隠喩としての建築』や『内省と遡行』など、別の作品にもあれこれ手を出したが、そもそも思想系・西洋哲学系の知識がある程度はあるとはいえ十分に理解できるレベルにはまったくない達してなかったので、かなり難儀した記憶がある。今読んでも、きっとおなじだろうなあ。とはいえ、今の、そしてこれまでの柄谷さんの仕事のことを多少は知っている立場からこの序文を読むと、彼の仕事の歴史のなかでの『マルクスその〜』の位置づけがより際立ってきて、おもしろかった。