「群像」 2020年8月号掲載。
食堂の料理人である笛田さんとその妻。会話の中に現れる、何者なのかわからないお客さん。毎回おなじカレーを食べ、コーヒーの回数券を利用し、食堂では古い文庫本を静かに読みふけるその様子は大学の教授のようだ、しかしこのお客は厨房でスタッフの丕出子さんが数字を読み上げながらの売上の計算中に電卓が壊れて計算できなった時、こっそり聞き耳を立てながら、その数字を正確に暗算していた。
こうまとめると、お客が非常に謎めいて見えるし、それがこの夫婦共通のイメージなのだろうが、三人称多元描写で書かれている本作の読者は笛田さんのことはもちろん、このお客が本作の主人公のひとりである阿見さんであることもわかっている。その、「わかっているのに」という前提が、このシーンの描写をさらにおもしろくしている。多元描写の醍醐味のひとつなのかもしれない。