わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

季節は移ろう、というより、ズレる

 五時四十分起床。わずかに雲が浮いているようだが「すっきり」という単語をためらわず使ってしまいそうなくらいの晴れ空。風はいくぶん強いようだが、冷たさはない。記憶の中にある十月上旬ごろの気候が、こんな感じだ。季節は移ろう、というより、ズレる。そのズレに、とんちんかんな違和感を感じないようになっているということは、人はそれなりに気候の変化へ順応でき、記憶や固定概念、理想像といったもののアップデートはできなくても、それはそれ、これはこれ、と 割り切り対処することができる。この割り切りが、人間を長いこと生かし、命をつながせ、文化文明をつくらせてきたのだろう。「つくらせてきた」と受動態なのは、外部の力への順応とはつねに受け身であるはずだからだ。

 仕事。ある業務用機器のカタログなのだが、ヨーロッパで開発されたものを日本で販売するということなので、資料の半分くらいは英文だ。専門用語が多いので、辞書のおせわになりっぱなしの一日だった。ま、辞書といってもネットで公開されている「英辞郎」を使っているのだが。これはホントに専門用語、俗語、流行語などに強い。

 義父が退院。今度は再発しなかったようだ。ひとまず安心。近いうちに妻が実家に顔を出すと言っている。今の状況、まだ何人もで押しかけるべきではないので、ぼくは遠慮かな。ま、義父はウォーキングが好きで比較的近所の住んでいるので、しょっちゅうわが家に顔を出してくれる。この習慣は今後も変わらないだろう。

 

 斉藤倫「ポエトリー・ドッグス(10)」(「群像」2021年11月号掲載)。酔い、そして記憶を無くす、ということ。わからなくなること。自我の消失、あるいは暴走。それは、異世界に足を踏み入れることに近い。だが、そこに異世界という感覚も、疑問も、嫌悪感もない。ただし、怒りはあるのかもしれない。逆に、喜びや快楽に満ちているか。