わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

こんな日もある

 五時四十分起床。夕べは早めに布団に入ったので、久々に七時間も寝たことになる。ランニング、距離はそれほどでもないがスピードは(自分としては)出していたから、疲労は大きかったのだろう。だから、よく、長く眠れた。まあ、こんな日もある。

 仕事。某クライアントの業務用ハードウェアのカタログの構成を仕上げる。鴨南蛮風豚肉つけそばをいい加減につくって昼食を取り、午後は別の案件に取り掛かる。ウェビナー関連だ。

 夕方、一段落したのでウォーキングへ。荻窪西友に立ち寄り、ノートと靴下を購入。人出が多い。どの店もにぎわっている印象。

 
 
 
 
 
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 夕食は昨夜のキーマカレーの残りと唐揚げを食べた。

 

 高橋源一郎×穂村弘「「ギャングたち」のゆくえ」(「群像」2021年12月号掲載)。源一郎さんの最新作「オオカミの」が、彼のデビュー作『さようなら、ギャングたち』とつながっていたことから、この処女作がいかにして生まれたか、そして形式を破って自由になるとはどういうことなのかについて二人が語りあい、最後には現代における言論統制の危うさにまで話題は拡がる。自由という概念は規制や束縛の反対語ではなく、実はこれらを内包していたり、あるいはこれらの上に成り立っていたりする側面もある、不安定な概念。ここを忘れてしまうと、すべてが散漫になる。小説というジャンルにおいて自由を成立させている要素は、言葉であり、常識であり、社会であり、歴史なのだと思う。一方で、これらを打ち破らなければ、小説は自由にはなれないというジレンマもかかえている。おそらく、破るべきはこれら自体、そのものではなく、これらを動かす(あるいは守る)システムのほうなのだと思う。