わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

夜桜ランとしゃれ込んだが

 五時四十五分起床。今朝も少し冷え込んでいる。インコのコジコジが少し寒そうだ。まだまだエアコンの電源をオンにする日は続きそうだが、一方で電気代やら燃料代やらの値上げが気になる。戦争の影響だけではなく、世界的な脱炭素化への流れが原油の高騰化を招いているという分析もあるらしい。

 午前中は掃除。午後は長めに散歩したり、読書したり。

 夕方はグリーンカレーをつくった。カルディのペーストをつかって久々にやってみたのだが、こんなに辛かったっけ? という印象。うまいんだけどね。仕事で外出していた妻が青パパイヤのサラダを買ってきてくれた。こちらもうまし。明日は、残った分にココナッツミルクとナンプラーを足して麺を入れ、なんちゃってカオソイにする予定。

 
 
 
 
 
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 天気予報を見たら明日は雨だというので、急遽夜ランへ。夜桜ランとしゃれ込んだが、葉桜になっているところもちらほらと。人出は少ない。寒さと、感染者の再拡大とが影響しているのだろうなあ。

 

 
 
 
 
 
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 竹田青嗣『意味とエロス』。「ii 欲望論の現象学」の、「〈意味〉の回折性」のあたりを少し。回折というのは、物理学用語なのかな? ちょっとイメージしきれない。相変わらず何回なのだが、読み進めている。少し引用。

 

 人間にとっての〈生〉とは、つまりその生の意識とは、経験がそのつど〈意味〉の連関として現われ、また〈私〉自身が〈意味〉への〈欲望〉として自らに開示されるということである。つまり、それは、いわば対象と主体の単なる直接的な実践関係として現われ流れゆくものではなくつねに、行為や実践とその意味がつかみ直され、そのことによって全く新しい質として現われ出た主体と世界との関係的な生きられ方なのである。

 こむずかしいのだけれど、こういう説明に強い意思や主体性、そして希望を感じてしまうのはぼくだけだろうか。現代思想のことなんてほとんどよくわからないのだけれど、現象学実存主義に強くひかれることがあるのは、こういった能動性が思想全体を貫いているから、なのかもしれない。ま、その感じ方自体が間違っているのかもしれないけど。