わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

生誕120年 藤田嗣治展

 東京国立近代美術館http://www.momat.go.jp/Honkan/honkan.htmlにて。藤田は、秋田の「平野政吉美術館」で観てから夢中になってしまったお気に入りの画家である。日本ではこれまで知名度、評価ともに決して高くはなかったようだが、根強い支持者は多い。
 初めて観る作品も多く、見ごたえありました。以下、今回の出展作品で気に入ったものを。

I. エコール・ド・パリ時代
●「自画像」(1921)。壁の乳白色、自分が東洋人であること、決して豊かではないことを包み隠さず、なんのフィルターも通さず、素直に描いている。しかし、この素直さはあくまでも藤田の素直さ。常人から見たら、どこかおかしい。
●「タピスリーの裸婦」(1923)、「眠れる女」(1931)。藤田と言えば「乳白色の肌」である。裸婦像も好きだが、ぼくが好きなのはその裸婦のそばにちょこんと描かれた猫の存在。裸婦の白い肌は、壁の白さと一体となり、部屋の空気や雰囲気と完全に合一しているような、不思議な調和を見せる。肉体のあでやかさを通り越した美の感覚。そこに、ひょいと描かれる猫。面相筆でチマチマと描かれたその姿は、肌や壁と同じ輝きをもちながらも、絵の中では異物である。だがその質感が、そのしぐさが、その表情が、乳白色のスパイスになる。
●「五人の裸婦」(1923)。裸婦たちに壁との同一感はない。その分、肉体が光と一体化しているような印象がある。肉感というものは存在しない。だが神々しいわけではないから不思議だ。ここにも異和としての猫がいる。犬も。
●「ライオンのいる構図」(1928)。檻に入れられたライオンは争いなき社会の象徴らしい。数多くの裸の男女が描かれている。が、ここにもやはり肉感はないのは、この作品の世界が藤田の思い描く「ユートピア」の世界だからだろうか。

II. 中南米/日本時代
●「町芸人」(1932)、「カーナバルの後」(1932)。どちらも「平野政吉美術館」で感動を覚えた作品。藤田と言えば繊細な乳白色であるが、じつはこの時期の、その乳白色を否定した作品群や、超乳白色ともいうべき感覚の作品のほうが好き。中南米に訪れ、帰国することで、藤田は肉体を肉体として捉えることができたのではないか。パリ時代は生命のエネルギーを鼻で笑うような皮肉がどこかにあるが(それはそれでたまらなくおもしろいのだけれど)、生と性の現実に、もはや逃げ場がなくなり正視せざるを得なくなったような、金箔した感覚がある。
●「狐を売る男」(1933)。これまでの乳白色の技法へ回帰しはじめるが、モデルとなる人物にはもはや同じ表情はない。袋小路にはまりこんだような男の瞳がたまらない。
●「北平の力士」(1935)。うーん、スゴイ。この絵がいちばん好きかもなあ。「平野政吉美術館」では、この絵の前からしばらく動けなかった。
●「自画像」(1936)。藤田の自画像作品はどれもみな好きなのだけれど、これはどこかデカダンな感覚があり、他の自画像とは一線を画している。画材に囲まれた自画像が多い中、この作品はメシやらのれんやらちゃぶ台やらタバコやら、日常的なゴチャゴチャに囲まれているのも珍しい。生活=生きて活動すること、に意識が向かっていたのだろうか。他の自画像よりも、地に足がついた感じ。懐からひょいと顔を出した猫がチャーミング。

●「猫」(1940)。当初は「争闘」というタイトルだったらしい。暴れまくる猫たちの姿はとにかくダイナミック。超高速シャッターで撮影した写真のような、不思議な躍動感がある。これも大好きな作品。

III. ふたたびパリへ/フランス帰化時代
●「私の夢」(1947)、「夢」(1954)。乳白色の復権。眠れる女性を囲む動物、その対比がおもしろい。爆発していた生命のエネルギーを消化したのだろうか、裸婦は以前よりも肉感がある。同じ乳白色ではあるが、確かに「肉体」となっている。
●「カフェにて」(1949-63)。ポスターにもなっている作品。乳白色を完全に日常のモチーフの中に消化し、(何気ないかもしれぬが、たしかに)幸福な一瞬を描き切った傑作。モデルの肌の城戸、着衣の黒の対比。(デッサンは意識的に狂わせているけれど)ここには完全な美があると感じた。

●「小さな主婦」(1965)、「朝の買い物」(1962)。晩期のお子様シリーズ。子どもがみーんな同じ顔。決して無邪気ではない。ひょっとすると、藤田以上にしっかりした、デキのよいニンゲンなのかもなあ、この子どもたちは。別の作品では、子どもたちに大人のすることをいっぱいいっぱいさせている。ちょっとアイロニカルでもある。