わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

時間貧乏

 七時三十分起床。秋分の日。いつもより一時間ばかり余分に寝た計算になるが、睡眠時間と熟睡の加減とはかならずしも一致しないらしく、しばらくはまどろみに足を引っ張られながら身支度した。休日なのだからもう少し余計に寝れば、熟睡しなくとも休息という意味では身心満足といかぬだろうか、と考えなくもないが、週のアタマから今日は働く日にしようと決めていた。なら早く起きるべきだ。だが一時間多く寝た。これを怠け者の証というべきか、一時間で済んだ、と捉えて根っからのワーカーホリックと決め込むのが正しいか。自分を知ることは、難しい。
 午前中は某社CI企画。CIといっても、ぼくが手掛けているのはいわゆる企業理念の部分。考えはまとまっていたので、あとは言葉を選んで組み立てるだけだ。十二時までに目処を立て、午後からは休むことにした。
 昼食後、十分だけ寝てから読書でもしようか、と横になったら二時間が過ぎた。まだ眠り足りないようだ。火曜日の福岡日帰り取材が堪えたか。もっとも、堪えたのは主に肝臓のほうだろう。仕事としても、一度に八人を相手にしてのインタビュー、これは骨が折れた。テープを起こすのにも苦労した。取材自体はもとより、その後の過程、終了後の飲み会も含めて、すべてが疲労のもとなのかもしれない。まあ、こんなときもあるさ、と割り切ることにしたが、どういうわけか充足感がない。年々睡眠時間は短くなっている。今年のアタマは平均四時間というときがあった。近ごろは多少マシになって五時間、これで十分だと思っていたが、十分ネタという実感はなく、眠ったのだからまあいいだろう、寝つきもいいほうだし、何度かトイレやら猫の世話やらで目を覚ましてしまうのだけが問題だが、しっかり眠れている方ではないか、などと考えていたが、どうやら短眠とやらはすこしずつ不足感が募るものらしい。かといって、今さら八時間も九時間も眠りたいとは思えない。だが必要性は感じる。どうやって眠るか。せいぜい、休日は眠る日と定義づけるくらいか。それでも今日のように、休日とは言え仮眠のつもりがしっかり寝ていたようなことが起きると、時間貧乏とでも言おうか、秋分となりこれからますます昼の時間は短くなるというのに、惰眠をむさぼってあれこれ活動するゆとりをなくしてしまったことが、もったいなくて堪らなくなる。「もったいない」とは二十一世紀のエコロジーのキーワードらしいが、時間の概念にエコロジーはあてはまるのかどうか。人生とは限りある時間のことだ、などとご教訓めいたことを言い出せば、時間のエコロジーもなくはないだろう。だがご教訓などと言われると反発したくなる。なら、どうすればいいか。何も考えなければいい。答えはわかっているが、考えずにいられない自分が悲しいといえば、まあ悲しい。考える時間もまた、もったいないと言えなくもない。
 夕方、おはぎをもって義父宅へ。義母は実家に帰っている。しばらくパソコンの操作を教えてあげたりしてから、近所のお好み焼き屋「藤」で夕食。広島風、とん平焼、ネギ焼。
 帰宅後、また寝てしまった。二十一時三十分から二十二時三十分まで一時間の睡眠。ふにゃんふにゃんと鳴く花子の声で目が覚めた。
 
 森茉莉「薔薇くい姫」。ぼくの愛読書である武田泰淳『目まいのする散歩』と通じるところがあると思った。描写の暴走、記憶の暴走。そこには、うすっぺらいが妙に強靱な意識が波打っている。
 古井由吉「旅の心」読了。つづいて「しごとの周辺」。遠回りもクソもないほど短い掌編小説。