わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

うりゃうりゃのこと

 独身時代から飼っていたセキセイインコ、うりゃうりゃ(♂)の命日である。痛風に苦しみ、最後は痛みのために食べることもできなくなり、ぼくの手のひらの上で静かに息を引き取った。ドウブツではあるが、身近な、大切な存在の命が絶える瞬間を見届けたのははじめての経験だった。それ以前に、アイツとは親友同士のような肉親のような、飼い主とドウブツという関係を超えた絆すら感じていた。もちろん、カミサンの連れ子だった障害もちのセキセイのハチも、ハチ亡きあとにさみしがるうりゃうりゃを慰めるために我が家へ招き入れ、一昨年にうりゃのあとを追うようにしてなくなったきゅーも、愛していた。だが、うりゃとの関係はちょっと違っていたような気がする。一年くらいではあったが、ひとり暮らしをしていたときからいっしょだったためだろうか。わからない。だが、いまだになにかことあるごとに、ぼくはうりゃうりゃに話しかける。その一言一言が、あの世で、あるいは生まれ変わった先で、アイツの重荷にならなければいいが。
 ぼくは霊感は(ヒーラーのゆうりさんほどではないが)あるほうだと思う。ときおり、うりゃうりゃの気配を家の中に感じることがある。リビングの、うりゃのカゴを置いておいたあたりの上で、突然羽ばたく音が聞こえることがある。カゴから部屋に出してあげたときによく止まっていたエアコンや本棚の上から、じっと観られていると感じるときがある。半分は気のせいなのかもしれない。だが、来ているのかなと思うだけでうれしい。一方で、今の自分はアイツが天国でゆっくりしていられないほど心配をかけてしまっているのかも、と思うこともある。死んだものに迷惑はかけたくない。
 
 七時起床。十二時より水道橋のE社にてプレゼン。直前に後楽園で軽く昼食をとったが、今日はドームでKAT-TUNのコンサートをやるらしく、おそらく公園は夕方だというのに、「入り待ち」というヤツだろうか、この春流行らしい軽い素材でふわっとしたシルエットのミニスカートをはき、発情した顔つきのお嬢さんたちがドームのまわりをウロウロしている。春風が強い。スカートが時折バババとめくれそうになる(パンツは見えなかったですよ)。が彼女たちはそれすら愉しんでいるように見えた。「好き」が「恥ずかしい」を抑え込んでしまうとは。おそるべし、KAT-TUN
 プレゼンの結果は上々。まあ受注が決まっている案件のプレゼンだから、好き勝手にできたし先方も否定的にあら探ししようというスタンスではなかったからかもしれない。だが、疲れた。帰社/帰宅後はグースカ眠ってしまった。