わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

伊藤比呂美×津島祐子「対談 詩と小説のちがい、という切実な問題」

「群像」7月号より。伊藤の「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」の連載終了記念対談かな。ひさびさに写真で見る伊藤比呂美の変貌にびっくり。ぼくがもっていたいイメージは、ぱっつんぱっつんなオネーチャン(80年代?)、それがいつのまにかオッパイオカアサンに変わっていたのだけれど(90年代?)、今回の対談の写真は熟女を通り越しかけてるって感じ。比呂美ねーさん、55年生まれだからまだ50歳過ぎだけど。うーん。
 そんなことはともかく、内容の濃さに驚いた。ぼくも言葉のプロのはしくれだけれど、もっともっと深く言葉を思い考えめぐらさねばならぬ、と痛感。
 この対談を読んでいると、身体感覚的、あるいは霊感的に、自分の、あるいは自分を媒介にした自分以上の存在(たとえば神とか)の、言葉を吐き出すのが詩人であり、現実的、あるいは理論的に、客観的かつ即物的な言葉をつなげていくことによって虚構世界を緻密に構築していくのが小説家、なのかな、と思った。このあたりのモヤモヤ、津島が対談としてはめずらしい「追記」でしっかり補足説明してくれたのがうれしい。津島は詩人と権力者との関係、政治的道具としての詩の(ねじ曲げられた?)役割について言及し、それゆえに「詩は決して、純粋なものではあり得ませんでした」と断言する。だからこそ、小説という表現形式が生まれたのだ。引用。

 そうした詩ではなく、別の形で人間社会を描けないものか、言葉の魔力から体を離したところで、自分たちの物語を自由に楽しみたい、そんな願いから、人間たちは「小説」、つまり散文による物語を考えたのではないでしょうか。

 ついでに、ねーさんも感動したと「追記への返言」で書いていた一文も引用。

 私はもともと「小説」という散文形式が持っていた、言葉の魔力に対する「人間の抵抗」という、おそらくは、ひどくはかない行動を、あえて大切に考えておきたいと願っているのです。

 こんなことを言える小説家、今の日本に何人いるだろう。スゲエ。
 そして、詩人として詩と運命を共にすると誓う比呂美ねーさんの生き方にも感動。ちょっと長いけど、これも引用。

 わたしたちは、詩人として、うたったり、のろったり、かたったり、いやしたりしながら、どうどうと生きていくべきだった。ところが当節、近代以降、「小説」というものが、わたしたちやその表現を、文学の分野の片隅に押しやって押しつぶしてしまった。「現代詩」はつまらなくなり、自滅していくように見えます。
 わたしもその自滅に手を貸した詩人のひとりではあります。一抹の爽快感とともに、寂寥感が私を襲うんです。滅ぶならば一蓮托生と思いました。真摯に思いました。

 滅亡を通じての復権、詩の再生。そんなことも、あるかもしれない。妙な希望を感じさせる文章だ。