「不軽」。大学生時代、語り手の家の近くに住んでいた芥見という同学年の男が、知らず知らずに、見も知らぬ男に手を合わせ拝んでしまい、それが原因で男に殴られてしまう。そんなことがないように、と語り手は芥見が目白まで金を用立てに外出するのを付き添うことにした……。
その経緯を語る芥見に、思うところを語り手が語るシーン、引用。
--自分でわからないのだ。人を拝むつもりは毛頭なかった。そんなこと、俺のすることではない。気がついたら、拝んでいた。
芥見は訴えた。偽りもなさそうだった。しかし私こそそんな行為は想像したこともなかったので、言葉を失った。
- 人を憎んでいるのではないか。
やがてつぶやいた。人を憎んでいるので、人を拝むとは、これも私としては、心のどこかにひそんでいたものか思いがけぬ結びつきだった。
つづいて金を受け取った芥見が、夕食をおごろうとするが外食する気になれず、一人暮らしのアパートに語り手を誘うシーンも引用。
--とりあえず、電車に乗ろうや。
にわかに空腹も覚えた。しかし並んで空席に腰をおろすと、物を喰いに出かけるような景気は二人とも感じられなかった。そのうちに周囲の客たちの、物事をすべて侮るような口調が一斉に私の耳についてきた。よく聞けば、たいていあたりさわりもないことを談笑しているだけだった。岩戸景気といわれた年の、年の暮れでもある。しかしおおむね上機嫌な物言いの端々に、あんなもん、こんなもん、と口には出さないが、唇の隅をかすかに歪めるようなぬめりがこもる。じつはよくも判断のつかぬ時世の変化に、お互いに困惑そのものを軽んじあうことで、折り合おうとしているようにも聞えた。
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