わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

今日の空

 六時三十分起床。聞こえぬ雨音に晴れ空を期待しつつ窓を開けると、最初に視界に飛び込んできたのは予想通りの青空なのだが、その空の色、雲の伸び具合、重なり具合、そして天への抜け具合、すべてが昨日までは冬の色を濃く匂わせていたというのに、今日は一転、不自然なくらい秋めいている。運動会の父親参加の徒競走でついて無理をしすぎて、すってんころりんと派手に転んだり、思い切り足首をぐねったりする運動不足のおっさんたちを連想してつい苦笑したのだが、よくよく考えれば自分もそのおっさんたちと同年代なのだから笑える立場にはないはずだ。我が家には子どもがいなくてよかった、のかもしれない。いや、ぼくはおそらくすっ転ばないだろうが。
 身支度を済ませ、ストレッチでこわばった朝の筋肉をほぐす。ついついやりながら、「仮面ライダーフォーゼ」を見てしまった。子どももいないというのに。それにしても今度のライダーは座薬に似ている。そして内容が、というよりも主人公が、だが、底抜けに明るい。石ノ森らしい憂いがないのだが、これが今という時代の反映なのか。
 走る。自宅→善福寺池→西荻窪駅前→神明通り→五日市街道→自宅。8.7km。
 帰宅後は掃除。
 昼食はうどん。ゆでたての麺を、生卵、納豆、濃縮めんつゆ、ネギで、じゅずるじゅずると啜り込んだ。うますぎて3杯も食べてしまった。それゆえに、なのか走って疲れたからか、それ以外の理由によるのか、単なる怠惰なのかはよくわからないが、午後は二時間ほど爆睡してしまった。
 夕食はカレー鍋。うますぎて病みつきになる。

古井由吉『蜩の声』読了

「子供の行方」。震災を契機に、ということなのだろうか、幼年時の空襲体験を「視覚・聴覚」を鍵にして語っている。記憶の中には、映像は強烈に残っているだが、そこに音はない。思い返すほどに無音になる。無音というのは虚無に通じる。視界まで消えたら本当の虚無、あの世に行くしかないのだろう。
 近年の他の作品と比べると、全体的に緩やかな息づかいで季節とともに生きる感覚が濃厚。これが老年の境地なのだろうか。ここで繰り返し、さまざまな形で語られる男女の性愛やある種の極限的状況、それらはすべて、破滅や自壊に向かっているようにも思えるというのに、不思議と絶望感がない。というよりも、絶望することを、やんわりとではあるが、拒否している。この姿勢から紡ぎ出された言葉たちは、棘はないのに不思議と刺さる。そして読む者の過去の経験を無理やり総点検させようとする。これまたやんわりと、ではあるのだが。 
 とかく、妙な魅力に包まれすぎた問題作。「これが生涯最後の作品」と言われても納得してしまうほどの味わい、そして終幕感がある。

蜩の声

蜩の声

古井由吉の作品はこちら。

 六時三十分起床。聞こえぬ雨音に晴れ空を期待しつつ窓を開けると、最初に視界に飛び込んできたのは予想通りの青空なのだが、その空の色、雲の伸び具合、重なり具合、そして天への抜け具合、すべてが昨日までは冬の色を濃く匂わせていたというのに、今日は一転、不自然なくらい秋めいている。運動会の父親参加の徒競走でついて無理をしすぎて、すってんころりんと派手に転んだり、思い切り足首をぐねったりする運動不足のおっさんたちを連想してつい苦笑したのだが、よくよく考えれば自分もそのおっさんたちと同年代なのだから笑える立場にはないはずだ。我が家には子どもがいなくてよかった、のかもしれない。いや、ぼくはおそらくすっ転ばないだろうが。
 身支度を済ませ、ストレッチでこわばった朝の筋肉をほぐす。ついついやりながら、「仮面ライダーフォーゼ」を見てしまった。子どももいないというのに。それにしても今度のライダーは座薬に似ている。そして内容が、というよりも主人公が、だが、底抜けに明るい。石ノ森らしい憂いがないのだが、これが今という時代の反映なのか。
 走る。自宅→善福寺池→西荻窪駅前→神明通り→五日市街道→自宅。8.7km。
 帰宅後は掃除。
 昼食はうどん。ゆでたての麺を、生卵、納豆、濃縮めんつゆ、ネギで、じゅずるじゅずると啜り込んだ。うますぎて3杯も食べてしまった。それゆえに、なのか走って疲れたからか、それ以外の理由によるのか、単なる怠惰なのかはよくわからないが、午後は二時間ほど爆睡してしまった。
 夕食はカレー鍋。うますぎて病みつきになる。

古井由吉『蜩の声』読了

「子供の行方」。震災を契機に、ということなのだろうか、幼年時の空襲体験を「視覚・聴覚」を鍵にして語っている。記憶の中には、映像は強烈に残っているだが、そこに音はない。思い返すほどに無音になる。無音というのは虚無に通じる。視界まで消えたら本当の虚無、あの世に行くしかないのだろう。
 近年の他の作品と比べると、全体的に緩やかな息づかいで季節とともに生きる感覚が濃厚。これが老年の境地なのだろうか。ここで繰り返し、さまざまな形で語られる男女の性愛やある種の極限的状況、それらはすべて、破滅や自壊に向かっているようにも思えるというのに、不思議と絶望感がない。というよりも、絶望することを、やんわりとではあるが、拒否している。この姿勢から紡ぎ出された言葉たちは、棘はないのに不思議と刺さる。そして読む者の過去の経験を無理やり総点検させようとする。これまたやんわりと、ではあるのだが。 
 とかく、妙な魅力に包まれすぎた問題作。「これが生涯最後の作品」と言われても納得してしまうほどの味わい、そして終幕感がある。

蜩の声

蜩の声

古井由吉の作品はこちら。