わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

敬老/妙考

 ハッピーマンデーとやらは祝祭日の意味を薄めてしまう、そんな作用があるのではないか。毎年九月十五日はお休みでジジババをいたわる日だ、そんなふうに覚えていたというのに、毎年九月の第三月曜日は、とはじまると、その流動性に惑わされるのか、それとも慣れ親しんだ九月十五日と違う日を敬老の日とすることに順応できないだけの話か。例年なら、ああ九月十五日なのに自分にはいたわるべき祖父母がいないんだよなあ、母方の祖母だけは健在だが、オバアチャンと呼ばれることに強い抵抗を感じているらしいし、いたわりたいと思うほど身近な存在でもなかったせいか、敬老の日と聞いて思い浮かべる相手ではない、などと考えを巡らせていたが、それがここ数年、あ、今日がジジババの日か、連休だ連休、それで意識が止まってしまう。
 七時起床。鏡を見たら鼻の頭が擦りむけていた。洟のかみ過ぎか、どこかにぶつけるか擦るかしたのか。
 午後より外出。真夏の暑さだが、蝉の声はツクツクホウシがまばらに響くだけ、もう夏は終わる。だが夏が終わろうが終わらず続こうが、今暑いという事実だけは変わらない。暑いに今も未来もあるもんか。この暑さをどうにかしたい。吹き出る汗を止めてしまいたい。渇く喉を潤したい。今したいんだ。そんな欲求が地球温暖化を招いたのだろうか。……今日はおかしなことを考えすぎる。
 新宿伊勢丹へ。カード会員限定のセール、ちょっと期待していたのだが特に魅力的なものはなかったので、チラリ「ロフト」によって石鹸と収納用品だけを買ってあっさり荻窪まで戻り、西友で配水管用のブラシ、敷布団のシーツ、夕飯の食材などを買って帰った。
 西友に行く前に「荻窪珈琲店」で休憩。黒々とした梁が天井に張り巡らされ、珈琲の香りがしみ込んでいるように茶色くくすんだ壁が白熱灯の光で柔らかに温められている店内で、煎れてくれる店員によって濃さが大きく変わるブレンドを啜り「今日は濃いめだね」などと話しながらケーキをつついていると、となりの席で、七十歳前後だろうか、ふたりの老人が地元の話に花を咲かせている。あまりじろじろ観察できなかったが、白髪アタマをキレイに七三に分け、メタルフレームの老眼鏡をかけたふたりは、服装こそポロシャツに綿のスラックスとカジュアルではあるが、じつはそこそこの資産家らしいことが、時折耳に飛び込む会話の断片から伝わってくる。おたがいに地主で悠々自適な老後、暇な毎日を畑仕事に精を出して充実させているらしい。敬老の日に敬われるべき対象がふたり集まって毎日の暮らしについて語り合っている。高齢化社会が進めば、敬ってくれる相手のいない老人は増えるのだろう、おそらくぼくもそのひとりだ。ぼくには子がない。
 夕食は麻婆ナス。なぜかとろみがしっかり出なかった。
 
 古井由吉「旅の心」。敬老の日ということで、歳を取るという事実をユニークな切り口から描いた部分があったので引用。
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 年を取って、人生の残りもようやく見えてきたせいでもあるのだろう。ちょうど川が河口に近づくにつれて、流れがゆるまり横へ広がり、遠い空を映して、どことも知れぬようになるのと同じで、意識無意識がだんだんに淀んで、あれこれの記憶をひとつに融かし、
知らぬはずのことの記憶まで、どうにかしてくっきりと映す。
 それでは、時間のほうはどうか。時間もまた年を取るにつれて前へ進む勢いがゆるんで、前後関係の張りがさほどきびしくなくなり、現在の中へさまざまな過去が流れこみやすい。旅の一日でも、暮れ方になって朝方のほうを振り返ると、必ずしもここまでひとすじにはつながらない。晩に今朝のことがよくも思い出せないような心にもなる。その分だけ、その一日の内に過去のさまざまな時が紛れ込む。長い一日なのだ。何十年もの歳月をふくむことさえある。
 早朝に街の教会の鐘の音におもむろに目を覚まして、こんなおかしなことをしばし大まじめに考える。
 ――はて、これは、いつの宿だ。