わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

紅葉と妖怪

200万画素のデジカメじゃ、伝わらんか

 九時起床。思い返すに、今年の秋の盛りの時期は長雨で、出歩きたくても出歩けなかった。それが、今ごろになってツケを返してくれたかのような空と暖かさが戻ってきたようである。今朝も空は霞んでいるが、青く、高い。映画でも観に行こうかと思っていたが、やめた。空が見たくなった。秋が見たくなった。それから新そばが喰いたくなった。
 
 午後からカミサンと気晴らしに深大寺へ。ここに来るのは十年ぶりくらいか。三鷹からバスに乗って十五分、深大寺入り口とかいうバス停で降りた。調布と三鷹の境目あたりか(隣接しているのかどうか、よく知らないのだが)。すぐそばを野川が流れている。両岸をコンクリートで固められているが、川幅は数メートル、コンクリートまではとても届かないが、流れる水は決して貧弱ではない。遊歩道に沿って広がる紅や黄に色づいた木々の色を、そして高くのぼった正午過ぎの小春日和の太陽の光をモザイクみたいに写したまま、緩やかに、だが確かに音を立てながら、流れすぎてゆく。野川の遊歩道を数十メートル歩いてから左側にそれ、住宅街や雑木林を抜けながら、あてずっぽうに深大寺を探してみる。行けども行けども林、林。迷うかも、などとカミサンは心配していたが、とにかく茂みに向かって歩けばいいはずだ、と信じていたら、案外すぐに深大寺は見つかった。寺というよりは森である。紅、黄、橙、深緑、茶と、自然の色彩が広大な土地をすっぽりと覆う。いや、土地から色がにょきにょきと生え、群生し、広がっていくと言った方がふさわしそうだ。天気がよいせいか、紅葉狩りの観光客が多い。簡単にお参りをすませ、植物園のあたりをうろつき、すっかり枯れてはいるもののそれはそれで風情のある水生植物園もグルリと回り、話題の「鬼太郎茶屋」でゲゲゲの鬼太郎グッズやギャラリーの展示を楽しみ(「西遊妖猿伝」の孫悟空が描かれた諸星大二郎のサインが飾ってあるのには驚いた)、ぼくは目玉おやじのカタチをしたモチが入っており、おやじが泥風呂でエステしているように見える「目玉おやじの栗ぜんざい」を、カミサンはヌリカベのカタチになっているコーヒーゼリーの上に、たっぷりと水木先生ゆかりの鳥取産生クリームが乗った「カベオーレゼリー」を注文した。前者は対したことなかったけれど、ヌリカベのほうの生クリームは、あっさり軽妙、だがコクがありコーヒーゼリーとの相性もよいなかなかのお味だった。
 十六時、吉祥寺行きのバスで深大寺をあとにする。途中、「ジブリ美術館」のそばで下車し、歩いて駅まで向かうことにしたら、すぐそばにある観光案内所みたいな場所の店先に、ミミズクと鷹がつながれているのを見つけた。ミミズク、よくよく見れば見るほど猫に似ている。鷹の方はちょっとオッサン顔である。なぜかアフロのヅラを付けてみたいと思ってしまった。ぼくらが立ち去ったあと、二羽ともなぜか大騒ぎしていた。
 井の頭公園の中を抜けて駅前へ。猫缶、食材などを買う。ロンロンの「新星堂」で、CDを購入。ケイト・ブッシュエアリアル」、「BEST BLUE NOTE 100」「同 VOLUME 2」。カミサンはさだまさしのなんかを買ったみたいだ。
 西荻窪へ。「力車」で夕食。塩カルビなど。
 
 帰宅後、ケイト・ブッシュを聴いてみる。十二年ぶりということだが、時間が空いたための期待感のせいかどうかはわからんが、一曲目は子どもを生み育てる大人の女と、ケイトの本質=永遠の少女のあいだを揺れる、アンビバレントな迫力に満ちた傑作。あとは、その微妙な雰囲気を淡々と歌にしていったって感じかな。ジャズのコンピレーションのほうは、全50曲、すべてがいちばんの聴かせどころだけを100秒分トリミングした断片集。曲が盛り上がって、おおすげえ、もっと聴きてえ、と思ったところでおしまいになってしまうのが、イヤハヤなんとも残念である。が、解説書が付いてくるのでぼくのようなジャズをよく知らん者にはうれしい。これのクラシック版も出ているようなので、買おうかなあ…。

 武田泰淳「王者と異族の美姫たち」を読みはじめる。中国・晋の時代。侵略者であり支配者であり為政者である王の息子たちそして侵略者たちが異族から奪った女たちの野心と恋心が描かれている、みたいだ。

 昨日読んでかけなかった、松岡正剛『フラジャイル』より、「欠けた王」の章。英雄神話に登場する主人公たちは、例えばギリシア神話アキレウスならアキレス腱が弱点、などと必ずどこかに欠けている部分があることを著者は指摘し、その欠落こそが神聖性を生むと分析する。それは神話の世界に限ったことではない。
 《ある種の人々に顕著な弱点や欠陥は、歴史のなかでしばしば痛ましい排除に出会っている。弱点や欠陥は、それが特に疫病や業病や、あるいは例外的な身分をあらわす徴候とみなされたときは、はげしい排除と差別にみまわれる。これは、しばしば「浄と不浄」の問題とか、「ケガレとキヨメ」の関係の問題とか、また「異例の問題」とかよばれてきた重要な問題である。(中略)私は、神話や伝説にみられる英雄たちがもつ最初の弱点や欠陥は、もっと広い範囲で刻印された身体的でかつ社会的なフラジリティというものの特別な例だとみなすようになった。異例であると見るようになってきた。/もっとわかりやすくいえば、支配のためにも、また排除のためにも、われわれの歴史には「弱さ」というものを極端に重視してきた裏側の目というものがあり、その長きにわたる陰影の濃い歴史には、「弱い不浄」(ケガレ)を「強い浄」(キヨメ)にてんじるためのおびただしいしくみが隠されていただろうということである。排除の構造はどこかで逆転して聖化の構造にもなりえたということだ。》
 著者はさらに、「しんとく丸」や癩病患者の差別の歴史などを例示しながら、《癩者や不具者に施しをすることが、じつは当時の人々が観音の慈悲や文殊の知恵に触れられる大きな契機でもあった》と論を広げる。
 《癩者や不具者や乞食には「不浄」の刻印がされているとともに、その逆に「浄」の属性が付与されていたのかもしれないということになる。そこには二重の異化作用が、ロラン・バルトの言葉でいえば神話作用というものがはたらいたのである。その点を戸井田道三は、「いやしめられる身分のものであったからこそ、逆に神聖なものに変身しうる社会的な約束が成立していたのであるし、また神聖なるものに変身しうるものとして物をもらうがゆえに、いやしめられた」と、『能−−神と乞食の芸術』1964で書いている。》
 なるほど、確かに鋭い考察。映画化された諸星大二郎の「生命の木」はまさにこの考えを物語化したものにほかならないし、「西遊妖猿伝」の斉天大聖自身にもそんな一面がありそうだ。ほかにも例を挙げればきりがないだろう。だが、こんな考察は実際に差別で苦しんだ方々にとっては何の救いにもならないことは、ぼくらは強く肝に銘じておかなければならない。


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