わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

メド

 眠くてたまらん。だが起きて仕事しなければ、結局は惰眠をむさぼった自分が苦しむことになるので七時、しぶしぶと蒲団から抜け出す。
 午前中は事務処理と銀行まわり。月末恒例。午後からはL社イベント企画に精を出す。二十一時過ぎ、ようやく目処が立つ。

 古井由吉『聖なるものを訪ねて』より、「デッド・ロード」。レンブラント描くところの、妙に筋肉質でなまめかしい肉体をした磔刑図。イエスを磔にした十字架を支えている男のモデルは、どうやらレンブラント自身らしい。ちょっと引用。
 《男の目は、どこを見ているのか。十字架上のイエスを振り仰いではいない。そのことで、おのれの罪業を見ているという捉え方に私は何をつけるつもりはない。ただ、これは支えた重みに感じている目だ、と思うのだ。まず端的な意味において。(中略)画家として、イエスの受難図をつぶさに描くことは、イエスを十字架に架ける罪業に等しい、という意識もあったのかもしれない。受難図を描くことは本来、受難者へのいっそうの帰依を表わすことのはずだ。しかし、いかに信仰の念が苛烈でも、磔刑図を如実に描くにあたり、重力を分析するという思考の習いがすでにおのずとはたらいたとしたら、どうなる。ニュートン万有引力の法則の発見に先立つことわずか半世紀ばかりの作品である。神は初めに宇宙の始動の力を加えて以来、おそらく最後の審判の日まで、万有に干渉しない、という考えは、それよりも早く、時代の精神の中へ影を落としていなかったか。》
 つづいて「十字架の静まり」。これも受難画の解釈。肉体のなまめかしさがすっかり消え、神聖な感覚、燃え尽きた灰だけがありがたい何か、そう思えるようなイエスの肉体が印象的なヴィッツの受難図を見て、主人公は死者の静けさに思いを向ける。死者が静けさをもたらすのは、古代も現代も同様である。そして、その静けさを静けさと感じ取れるのは、生きている人間だけである。引用。
《人生の実装は、人の息を引き取ったあとの静けさの中にある、とそんな言葉をどこかで聞いたことがあるような気がする。私も中年期に入ってから四人の肉親の、死のあとの静けさに触れている。あるいは、どこかで聞いた言葉ではなく、どこかで読んだ言葉でも鳴く、肉親の死に接して私のうちにおのずと浮かんだ思いだったのかもしれない。それでも、私の思った事とはいえない。私個人よりももっとひろいところから来た想念にちがいない。/死者の静けさということになるが、その静まりを感じているのは生者である。》