わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

相武紗季ちゃんを出発点に、自由と愛について考えてみる

 夜中、花子にゴハンをせがまれ目を覚ます。基本的に午前四時を過ぎないとゴハンはあげないことにしている。どんどんゴハンタイムが繰り上がってしまうからだ。いや、すでにかなり繰り上がってしまっているのだが。で、花子である。ドスドスドスと布団に横になるぼくの腹の上を歩き、耳元でウニャンウニャンウニャーンと鳴き散らす。ぼくはしばらく、何が起きているのかが理解できない。それくらい寝ぼけているのだが、ウニャンが繰り返されるにつれ、次第に脳がはっきりしてくる。ゴハンをあげなければ、と気づくまでにかなりの時間がかかるように思えるが、それを計る術はないのでよくわからない。もやもや、もやもやとするなかに、ただただウニャンが響いてゆく。ウニャンが脳味噌に入り込むと同時に、もやもやが脳から消える。やがて、ウニャンが「ゴハン」に聞こえはじめる。ここまできて、ようやく起き上がる。時計を見た。デジタル時計である。三時三十三分。ニャンニャンニャンではなく、ミャンミャンミャンであった。花子の鳴き声、ウニャンではなくウミャンと記した方がいいのだろうか。ゴハンは与えず、もう一度寝た。
 七時起床。嵐のような雨。夏の台風で、雲は妙に途切れ途切れで時折明るい陽射しさえ覗くというのに、雨風は強いときがある。あれによく似た空模様だ。しかし、やはり台風と比べるとどこか弱々しい。夏の風は、育ち切った深い緑の木々をなぎ倒すように吹く。春の風は、咲き切った花々を散らしながら吹く。突風に八重桜の濃いピンク色をした花びらが濡れながら舞い、舞いながら濡れ落ちていた。
 いろんな案件をあれやこれやと。打ち合わせはなかったが、作業がてんこもり。おまけにメールと電話がめまぐるしくやって来る。
 夜はテレビ東京TVチャンピオン」のゆるキャラ選手権を見てしまった。爆笑。
 読書はまだしていない。
 
 また相武紗季ちゃんの話である。夢に出てくると、そのタレントが好きになってしまう。今でこそまるで興味がなくなってしまったが、ナッチこと安倍なつみがそんな感じだった。だがアイドル好きだという自覚はまるでない。むしろ秋葉原に集うひとびとの熱狂ぶりを見ると腰が引け眉間にシワがよってしまうくらいである。なのに、なぜときたまアイドルやタレントの女性に惹かれてしまうのだろう。
 以前、カミサンから「ちょっと優等生っぽい女の子が好きみたいだね」と言われたことがある。なるほどナッチは優等生的かもしれない(盗作したが)。相武紗季ちゃんも、ミスドやOCNのCMで元気さを出している反面、パイロットのCMやドラマではしっかりもののお嬢さんという感じも強い。どうやら本能的にそのようなタイプに惹かれるようだ。カミサンも(かなり個性的ではあるが)優等生の類かもしれぬ。なぜそんな子に惹かれるのか。これまた、よくわからん。
 アイドルに興味を持つ三十六歳自営業男性。これはかなりキモチ悪い。だが、自分と同年代の男性のアイドル(相武紗季ちゃんはアイドルというより女優だと思うが)への関心というのはどうなのだろう。やはり性欲的な興味が先に立つのか。自分の場合は、そういう感覚はほとんどない。ああかわいいなあ。しっかり演技してるなあ。がんばって仕事してるなあ。成長しているなあ。そんな感覚、見守るような感覚でただただ観察するだけである。
 自分にも人並みの性欲はあると思う。が、この性欲というものがどこに向かっているのかが、時折わからなくなることがある。いや、強姦したくなるとか痴漢したくなるとかそういう話ではなく。性欲というものはどこかで子孫を残したいという願望につながっているのではないか、と思うのだが、ぼくは昔からそんな欲求がまるきりない。などと書くと両親や義父母から怒られそうだが…。子どもができれば愛情はそそぐだろう。だが、その前段階でつまづいている。これはどういうわけか。
 ここしばらく、関心が「家族」というものに向かっていた。山本昌代の完成度の高い家族小説を読んだからかもしれない。異性に対する愛情は、どこかで家族をもつ欲求につながっているはずだと思っていた。ところがそう考えている自分はそこに(子どもをほしがらない、というような形で)欠落があるように思える。山本昌代の小説は、その欠落からの恢復を描いた作品と言える。
 戦後、占領軍によって古い道徳観の廃棄を強制された日本人は、その代わりに「自由」なるものを手に入れた。ただし、封建的な社会構造を曖昧な形で残したままで、ではあるが。この自由という存在が、家族の絆を曖昧にし、異性とのつながりまでも曖昧にしているのだとぼくは考えている。自由を否定するわけではない。自由を自由として意識的に行使しようとする態度が家族や異性との関係にまで表れることによって、愛情というものが破綻しかかっているのではないかと思ってしまうのだ。それが曖昧な社会構造の中で、おかしな方向へ暴走しはじめる。妻帯していても愛情が家族/妻以外の方向へ向かったり、妙に拡散したり(要するに、二股三股というヤツだ)する。それが、結婚が過ちだったという後悔をもとにした行動というわけでなかったりもする。結婚しても恋愛は自由だ、などと主張し憚らない。それでいて、相手の愛情が他の方向へ向かったり拡散したりすれば、それを強く咎め戒めようとする。自分だけを見させようとする。そう願うこともまた、自由だと主張するかのように。
 自由という言葉はやっかいだ。ときには人を無責任の方向へ強引に引っ張り出し、ときには人を執着の方向へ引きずり込む。両方を同時にやられれば身が引き裂かれ、己の生活が、己の人生が破綻する。それが自由主義なのだ、ロックな感じでいいじゃんか、と言ってしまえばそれまでだ。だが、みっともなくて見ていられない。自由は使うものであり、使われるものではないはずだからだ。使われているとは、自分を失っているということだ。身も簡単に引き裂かれるだろう、無責任と執着の、ほんのすこしの引っ張り合いによって。
 時代とともに自由の意味も変わっていく。いや、「広がってゆく」と書いた方がしっくりする。どんな信念をもっていようが、それは個人の自由である。そこまではよい。だが、その信念をタテマエに無責任な態度を貫き、身勝手な執着を繰り返して家族を分断させ、他の異性を自分の自由を妨げる敵と見なし、あげくの果てにそれらの経験を試練や学びの機会と捉え、その経緯こそが「愛」なのだ、などと主張されたりすると、そんな態度を取る人たちに、自由の意味を、そして「愛」の意味をイジワルなくらい徹底的に問いただしてみたくなってしまう。もちろん、ぼくにもそれらの答えは出せないのだが。
 自由には、そして愛には統制が必要だ、とつくづく思う。統制されるからこそ、美しい方向へ暴走できる。ルールは人を縛りつけるためだけにあるわけではない。自由を爆発させエネルギーへと転換させるシリンダーであるべきなのだ。
 で、相武紗季ちゃんである。タレントへの愛情もまた、美しく統制されていなければならない。くれぐれもアイドルオタクやストーカーにならぬよう気をつけねば。いや、気をつけるまでもなさそうだけれど。