わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

大澤真幸×保坂和志「自由」の盲点(「群像」2006年9月号)

 大澤が、自由という概念は中心の部分が欠落したまま歴史とともに広がってしまっているのではないか、というようなことを語っている。必然性と自由は背反するが、かといって必然の反対語である偶然もまた、自由とは背反する。偶然から自由は生まれないからだ。そこで大澤は、自由を以下のように定義する。

 自由というのは、原因が内的だということ、自己原因ということです。私の行為の原因を、その当の私の行為がつくり出す、つまり自分の原因自身を自分でつくる、そういうところに自由があると思っているんです。

 自由は自分の手でしかつくり出せない。だとすれば、現在アメリカがイラクに対して行っている自由化(民主化ともいうが)は、外部原因による自由ということになり、真の自由ではなくなる。自由は誰からも強制されないものだ、ということがよくわかる。中近東がその歴史の中でなかなか(アメリカの考える)民主化に進まない理由は、必然でも偶然でもない、共同幻想的ではあるかもしれぬが自己原因の、気の遠くなるほど長い連鎖の中にあるのではないか、とこの文章を読んでふと思った。
 ニンゲンとは、自由を求めながらも自らを規制されることを望み、規制されることで可能性を創造できる存在なのではないか、と以前から考えていた。しかし、外部から規制されれば可能性の芽はことごとく潰されてしまう。自らを律することができなければ、真の自由は得られないのだ。創造とは、自由であることだ。外部から影響を受けただけの状態では、創造ではなく模倣でしかない。模倣だけでは、ニンゲンは決して幸せになれない。