アンリ・ルソーの作品と、ルソーに影響を受けたりインスパイヤされた国内外の作家数十名の作品を集めた企画展なのだが、正直言って期待外れ。これから行こうと考えているひとは、自分はなんのためにそこに行きたいのか考えてから行ったほうがいい。
ルソーの作品はほとんどナマで観たことがなく期待は高かったのだが、集められた作品がどれもいまひとつ、自分の観たかったルソーの世界が描ききれたものではなくて失望。思うにルソーの作品は熱帯雨林の中で女が猛獣に食われていたり、猛獣が猛獣に食われていたりする、あの不思議な血なまぐささ、奇妙な不安を感じさせる一連の作品群抜きには語れないと思う。たた単にジャングルを素材にしただけの作品からは、ルソーがとても無邪気に感じていたはず(とぼくは信じているのだが)の、子どもが闇に対し無意識のうちに感じるような本能的な怖れ、生きるという行為自体がもつ恐怖、相手を殺し喰うという生き物の定めの残酷さ、しかしそれがどこかで許されてしまうという(ぼくはこれが原罪だと思うのだが)奇妙な不文律、どんなに殺戮が繰り返されようと動じることのない、むしろそれによって秩序が保たれる自然の真実、そんなものはまるで感じられなかった。単なる「素朴派」で片づけてしまうには惜しい画家なのに、企画の発想の乏しさがそうさせてしまい、展示された作品も、そこから抜け出せていないように思えた。
ルソーにつづけ、と似ているようで似ていない作品を描いた作家たちも多く紹介されているが、彼らの作品をルソーのフィルター越しに語ってしまったらまるで価値なしに見えてしまう。これはもったいないと思った。対象を、ルソーのような手法でまともに描けば、それはその画家の内面から湧き上がったタッチではないからウソになる。内面と強調した描き方になると、今度はそれが、真実を描こうとするというより、逃避になる。絵が、現実を土台にしていない。しているはずなのに、そこから書き手の視線が実は逃げているのが伝わる。
ただひとり、例外は松本竣介。「立てる像」は、たしかにルソーの中期のアンバランスな肖像から影響を受けているとは思うが、ぼくはこの絵を観ていると、松本は、自分はルソーになんかなれっこない、ということを素直に認めた上で、自分の内面、不安にとらわれながらもどこかに強い意志を秘めている心、そんなものを描こうとしたにちがいないと思った。つまり、松本はルソーを意識しつつもルソーから離れることで、ルソーとは違った作品世界を見事に構築できたことになる。これはスゴイ。事実、ルソーの作品のつぎに、観ているひとが多く足を止めていたんじゃないのかな。