わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

武田泰淳『目まいのする散歩』

 墓参り記念で、表題作だけ読み返した。
 武田泰淳という人は、歴史を、そして人間の魂を独自の視点で鋭く観察し、分析し、描写した偉大な作家だと思う。好きな作家を訊かれると、真っ先に挙げるうちの一人。『富士』のプロローグ部分、そして連作エッセイ(小説っていう読み方もあると思うが)である本作の表題作の二つは、思い入れが特に強い(逆に、司馬遷関連にはあまり興味がナイ)。
 脳血栓(だったかな)で倒れた泰淳が、その後口述筆記で百合子さんに書いてもらったという本作は、タイトル通り、ひたすらテキストが迷走しつづける。時系列も空間もぶっとびまくる。にもかかわらず、各シーンにおいては確かな観察眼が発揮され、そこに独自の鋭い(のになぜかぐにゃぐにゃした印象の)考察が挟み込まれてゆくのがスゴイ。考察、いや、もう、これは悟りと言ったほうがいいかな。冒頭で富士の別荘近辺で目まいによりぶっ倒れてしまうシーンがぐらぐらに足元が揺れるような妙に危なっかしい文体で描かれているのだが、これって「本作はボケ老人が書いていますよ」と宣言しているようなもの。そしてそのまま、ボケ老人は散歩の中で見たり会ったり体験したりした、あらゆるものを思いつくままに描写していくのだ。それだけなら戯言でしかないのだろうが、先にも書いたとおり、時折とんでもない悟りのような考察が挟み込まれていくところがとにかくすごい。そして、その考察もまた目まいに揺れているのだ。
 前半で突然『中央公論』の新人賞の選者に伊藤整、三島、そして泰淳の三名が選ばれたことがあるが、伊藤はガンでひっそりと死に、三島は割腹で派手に死に、では残された泰淳はというと、もはやボケて死ぬこと、「恍惚死」しか残されていないのではないか、といったことが書かれているのだが、ラストシーンがこれに見事に呼応してしまう。九段近郊で、右翼団体の、三島の写真を用いたビラを見かけた主人公(泰淳)は、三島の死後のありようを通じて、自分の死の社会的・歴史的な価値について、ついつい思いをめぐらしてしまう。「自分の死」と露骨に書かれているわけではないのだけれど。引用。

 通行人は誰もそのビラを見ようとはしなかった。「憂国忌」という激しい主張よりも、スモッグに満ちた空気の流れは速いらしかった。だが、私にとって、その色のはげたビラは、いきなり親し気に呼びかけてくるようであった。まばゆい白昼の光の下で、わき眼もふらず坂道を上下する学生やサラリーマンの足取りは一刻も止まることをしらない。だが、三島氏の顔写真のあるビラが、三島氏以外の意志によって貼られ、風にふきちぎられそうになっていることは、私をおびやかした。

目まいのする散歩 (中公文庫)

目まいのする散歩 (中公文庫)