わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

東京都写真美術館「日本の新新作家展VOL8 出発--6人のアーティストによる旅」(2009/12/19〜2010/02/07)

 参加した写真家は、尾中浩二・百瀬俊哉・石川直樹・百々武・さわひらき・内藤さゆり。写真芸術にはとにかく疎い身であるが、石川直樹の命を張って地球の果てまで行き誰にも撮れない、それでいて地球の営み、人の業、そういったもの、乱暴に括れば「真実」に満ちた絵を掴み取ろうという姿勢には以前から注目していた。加えて、敬愛するDavid Sylvianの極めて芸術性の高い(というか芸術そのもの)プロモーションビデオを制作したさわひらきの作品が展示されている、と聞いたら、そりゃもう居ても立ってもいられぬわけだ。

  • 尾中浩二…日本全国を旅しながら撮り貯めたらしい、経済活動の歯車からこぼれ落ちたような、切ないが守りたい風景が並ぶ。
  • 百瀬俊哉…今回、一番注目した写真家。撮影対象がインドとなれば、もうそれだけで十分生と死のエネルギー(死もまたエネルギーに満ちている、とインドという土地は痛感させてくれる)を存分に感じられるわけだが、観光旅行ではとても目に止まらぬような風景ばかりをざっくざっくと切り取り、鮮烈な色彩感覚でもってそれを見る側に突きつけてくる。藤原新也さんのインドの写真にちょっと似ているかもしれないが、藤原さんが生身の感覚に満ちているのに対し、百瀬さんは死の向こう側に突き抜ける場所を探そうとした結果、こんな写真ばかりになったのではないか、と思わせる雰囲気がある。会場に掲げてあったアーティスト・ステイトメントより引用。

 インドはあこがれの旅先でした。しかし僕はここで視覚の混乱を感じました。ある程度予測はしていたのですが、カメラを構え被写体と対峙した時、フレームを超えてさまざまな情景が目に飛び込んでくるのです。試行錯誤の末、結局目の前にある被写体と寄り深く対峙することで、、撮影を進めていくことができました。それは1回のシャッターを切るのにとても時間のかかる旅でした。
 実際に眼で見ることができず触ることができないものでも、感じ取ることができたものを、視覚化できることが写真の力の一つだと考えています。日常の光景では、普通の人はまったく気にも留めていない都市の光景を拾い集めながら、自身で記憶していくのです。これは僕自身が都市を取るという旅の中に、写真家としての自らの“場所”を見つけようとしているのかもしれません。

  • 石川直樹…今回は富士山を撮影した作品ばかりが並んでいた。日本人なら誰もがすぐに思い浮かべることのできる優美なシルエットの写真なんぞほとんどなく、獰猛な牙を剥いたまま眠ったかのような火口、近寄るんじゃねえとでも言いたそうに広がる奇妙な雲、歩けるものなら歩いてみろといわんばかりに広がる草一本ない荒涼とした山道など、ニンゲンと対峙する厳しい存在としての富士をたっぷりと見せつけてくれた。
  • 百々武…日本全国の「島」に暮らす人々のポートレートが中心。島という環境は自然が凝縮されているようで、だからだろうか、そこに住む人たちはみな、なんらかの形でうまく自然と折り合いをつけているように見える。それが神事となって現れたり、日常生活の基本的なスタイルとして現れたり。その一方で、自然とかけ離れた何かを無理やりそこに持ち込もうとするのもニンゲンのサガで、そんな側面にもこの写真家はしっかりカメラを向けているように思えた。
  • さわひらきDavid Sylvianのプロモーションビデオは静寂に包まれていながらも意外性と期待感に満ちている。地味な興奮、というべきか。残念ながら作品はこのプロモともうひとつ、小さな映像(動画)作品の2点だけ。もっと観たいと思った。
  • 内藤さゆり…美しい色彩や風景を美しいと素直に感じ、それを大切にしたいと心の底から願っている人なんだろうなあ、と思わせる写真たち。美しさへの喜びと、そこに垣間見れる、ほんのわずかの感傷。

 作品のごくごく一部はこちらで観ることができます。

全ての装備を知恵に置き換えること (集英社文庫)

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インド照覧―百瀬俊哉写真集

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