わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

デベシ

 五時五十五分起床。今朝も暖か。遠くからカラスの鳴き声だけが聞こえる。姿は見えない。底にセキレイのキキキという声が小刻みに混じる。スズメも小さく声をかぶせる。
 麦次郎、皮下輸液170cc。
 十時三十分、後楽園へ。葉桜から舞う花吹雪のなかを歩いて打合せ場所へ。汗ばむ。屋根のないバスを見かけた。
 新規案件の打合せ。白熱。
 十二時過ぎ、帰社/帰宅。荻窪駅からの帰り道を歩いていると、背後から「デベシ!」という声が聞こえた。音として明確で、しっかり言葉として聞こえたから、花粉症のクシャミにしてはおかしい。振り返ったら、ヘッドホンして歩きながらDSに興じているおにーちゃんともおっさんとも判別のつかないスーツ姿の男がいた。興奮して叫んだ声のようだ。そのあと、ずーっとにやけながらゲームのことを独りごちていたから間違いない。それにしても、「デベシ」とは何か。疑問が残る。
 午後からは新規案件に集中したかったのだが、なぜかさみしんぼうになっていた花子に何度も邪魔された。仕方ない。猫飼いの宿命。
 夕食を食べながらテレビを観ていたら、サンドウィッチマン被災地訪問の様子を紹介していた。優しさと強さに満ち溢れていた。たくさんの人が亡くなった。でも、生き残ることができた人たちは、決してつぶされることはないのだと痛感した。ただし、これは地震津波の災害に限ってのことなのかもしれない。原発が絡むと、たちまち感情は硬くなる。あるいは攻撃的になる。被災地には感動がある。だが、残念ながら今の原発にはほとんど感動がない。事故初期の放水作業を褒め称えていた声が懐かしい。