わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

バブルか?

 今日は寝坊しなかった。打ち合わせや締め切りが多く、脳味噌が緊張しているからだろう。精神的なプレッシャーは以前ほど感じなくなってきた。クライアントの求める内容とこちらが考えることのズレに、多少不満を感じる程度だ。仕事がおもしろい、仕事があることがありがたい、とそれだけ思うようにしている。
 早朝から午後イチまで、ミッチリといろんな案件を。十五時、霞が関の某ITベンダーで打ち合わせ。終了後、銀座の代理店U社へ。某公共団体の広告の打ち合わせ。十九時、終了。
 今年のクリスマスは、白いツリーが多いようだ。去年は青ばかりだった。おそらくはその年のトレンドがあるのだろうが、株価下落と消費の「踊り場」状況の果てしなき継続からなんとなく疲弊感のあった去年が「青」で、株価上昇と不景気の底打ち感が感じられはじめた今年は、浄化や光にもイメージがつながる「白」というのはなにやら暗示的である。ソニービルの前にある巨大なツリーはシャネルがつくったものらしく、飾りとして大きなNo.5のボトルが何十個もぶら下がっている。琥珀色に輝くこのボトルは、バブルなイメージを匂わせる。だが、このツリーに見とれる通行人はほとんどいなかった。この時期のツリーなど、ありきたりすぎるのだろうか。その感覚も、またバブルである。
 軽く晩酌、と泡盛を飲んだらそのままつぶれてしまった。どうも疲れているらしい。
 「タモリ倶楽部」「爆笑問題の検索ちゃん」。水曜の「オーラの泉」とこのふたつだけが、楽しみにしているテレビ番組。偏っているなあ、と思う。
 
 田中小実昌『ポロポロ』より、表題作を読みはじめる。「ポロポロ」とは、主人公(おそらくはコミさん自身)の父が開いていた教会で行われる、祈りとも懺悔ともつかない宗教的な行為のこと。コミさんはこう書いている。《ポロポロのもとは、使徒パウロだろう。しかし、一木さん(引用者注:教会の常連さんの名前)は、パウロ先生の霊に、いつもゆさぶられていたかもしれないけど、これは、やはり、祈りのとき、ぽろぽろ、と一木さんの口からこぼれでたものにちがいない。/イエスは、十字架に架けられる前の夜、ゲッセマネ(ルカ福音書ではオリブ山)というところで、切に祈った、と聖書には書いてある。だが、そのとき、イエスは日常はなしていたらしいアラム語で祈りの言葉をのべたのでもなく、またユダヤの祈祷用の言葉を口にしたのでもなくて、ただ、ポロポロやっていたのではないか。》
 つまりは本能的な、ココロの底から溢れ出すような信仰の音、それは言葉以前の言葉であり、ひょっとしたら嘆きや憂いや悲しみや、あるいは笑いや歓びの声だったのかもしれない。続けて引用。《ゲッセマネの園で、イエスが言葉で祈っていたなど、考えられない。だいたい、だれかが祈ってる言葉をきくと、ちょっぴり自己反省をし、そして、自らの徳行を誇り、あとは神に対する欲求ばかりだ。/ルカ福音書二十二章によると、その夜、オリブ山でイエスはこう祈ったという。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いでなく、みこころが成るようにしてください」/みこころならば……みこころが成るようにしてください、というのは、神への欲求でもなければ、自分の願いでもない。ただ、神をさんびさせられているのだろう。言葉は、自分の思いをのべることしかできない。イエスは、自分の思いをのべているのではないのだ。/オリブ山(ゲッセマネ)で、イエスはこう祈った、と聖書には記されているが、実際に、そのとき、イエスの口からでた音は、言葉ではなく、ただのポロポロだったのだろう。/ところが、世間では、いや、キリスト教の教会の人たちも、イエスは、それこそ世間の言葉で祈ったとおもいこんでいるのが、おかしい。》


ポロポロ (河出文庫)

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