わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

佐川光晴「銀色の翼」読了

 脳腫瘍の手術の後遺症で一生頭痛と付き合わなければならなくなった男と、偏頭痛に悩まされている年上の女の結婚生活の物語。全体を通して、その世界は、登場人物たちがどんなに喜びを感じようと、陰鬱である。しかし、ラストにだけ光が差し込める。
 妻の援助により鍼灸師の資格を取り鍼灸院に務めはじめた夫は、脈の流れから妻の子宮に腫瘍ができたことを見抜く。早期の癌だとわかり摘出手術が行われたが、妻は術後に更年期障害に悩まされ、それがやがて精神の異常へとつながってゆく。夫が鬱病だったころに書きためた、京都のあちらこちらの石のスケッチに異常な関心をしめすようになるが、夫はそれを忌まわしき思い出として二度と見たくないと思っている。見るな、といっても妻はその絵を見つづけてしまう。そしてあくる日、妻は自宅がある湘南(だったかな?)から、夫がかつて最も(異常な)興味を示した石がある京都の寺まで出かけてしまい、そこで暴力沙汰を起こし警察に連行されてしまう。夫の中で、ふつふつと殺意が沸き起こる。妻を迎えにいくという名目で京都に出かけた夫は、ホテルで妻を殺そうとするが決意がつかない。あくる日、二人は例の寺へ向かい、例の石を目の前にする。妻は、かつて夫がそうしていたように石を長めながらその輪郭を指でなぞるようなしぐさをし、気づけば夫もおなじことをしている。石の形は翼のようで、それは「銀色の翼」と呼ばれる偏頭痛の症状が現れる直前に見える不思議な光のかたちに似ている。ふたりはおなじ銀色の翼を目にしているのかもしれない。そこで夫は殺意を失い、はじめて妻と本当の夫婦になれたと実感する。

「銀色の翼だ」
 口の中で呟かれた言葉が妻に聞こえたかどうかはわからなかったが、腕が動くたびに中に形作られる軌跡の重なりは、たしかに翼を思わせた。これまで妻の目の中にしかなかった銀色の翼が、わたしにも見える。それはもはやたんある頭痛の兆しではなく、一枚一枚の羽根が、我々の描く石の軌跡によってつくられたものだった。一瞬、右のこめかみに痛みを感じたが、それきりで終わり、妻の動きも止まった。わずかな吐息が口から漏れ、
「きっと治るよ」
 と言うと、わたしは左腕で妻を抱き寄せた。もっとも妻のほうでは、こころここにあらずといった様子で、まだ宙を見つめている。おそらく、彼女には、わたしよりもさらにはっきりと、二人で描いた銀色の翼が見えているにちがいない。団体客が来たようで、大勢の足が玉砂利を踏む音と話し声が近づいてくる。たとえ治らなくても離れることはないという確信が生まれ、わたしの腕に力がこもる。
「痛い」
 と妻が声を上げたが、わたしはかまわず抱き締めた。あとどれくらいの歳月が残されているのか、わからないが、われわれは離れることはないだろう。ようやく夫婦になれた、とわたしは思った。

 病気が縁で結ばれたふたり。それはネガティブな出発点であり、ひょっとすると彼らは同情しあうことでアイデンティティを確認していただけであり、そこに愛はなかったのかもしれない。しかし、物語のラストでふたりははじめて、自分たちの抱える頭痛というやっかいなものに(漠然とながらも)向かい合い、さらにお互いをしっかり見つめあおうと(少なくとも、夫のほうは)決意する。
 これは自分しか見ることができなかった男が、はじめて他人を大切な存在として受け入れるまでの物語なのではないか。他人との関わりとはどういうものなのだろう。そんなことを考えさせられる作品だった。