わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』

 ラカンと「死者」、カミュと「ペスト」、そして二葉亭の、文学(の秘めるチカラ、可能性)に対する「懐疑」。言葉には、真実を真実として描ききることはできない。だから、日本文学が描きつづけてきた「内面」は内面ではない。それは対象として表現される限りにおいて「外部」でしかないのだ……ということが言いたいのかな、源一郎氏は。引用。

 我々が読んできたのは、「『私』の『外部』にある何らかの実態に『悪』を凝縮させ、それと『戦う』主体として『私』を立ち上げるという物語」ばかりではなかったでしょうか。(中略)「ニッポンの小説」が、描出することに全力をかたむけてきた「内面」は、ほんとうに「内部」にある何かだったのでしょうか。「内面」を「内面」として描くことは、結局のところ、「外部に措定する」ということではないのでしょうか。
 そこには、言葉の奸智とでもいうべきものが存在しています。実際、近代文学というものに従事してきた作家たちは、「内部」になる何か、「内面」とでも呼ぶしかない何かを、言葉によって書き表そうとしてきました。では、どのような方法によってでしょう。
 それは、何かを「外部」に措定する、というやり方によってです。いや、彼らは、自分たちが「『外部に措定する』」というやり方によっていることさえ知りませんでした。なぜなら、彼らが知っている散文には、それ以外のやり方がなかったのです。
 しかし、他の方法なしで、彼らはすますことができました。それで、なんの問題もなかったのです。つまり、「死者」について書く必要が生じるまでは。

 これ、実はカント以降哲学がずっと取り組みつづけてきた認識論の言い換えなんだよね。対象が内にあるか外にあるかの違いがあるだけで。