わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』

 内田樹の「存在論の語法」=レヴィナスによる暴力の定義。引用。

 全体のエコノミーのうちにある限り、「私」は、非-私であるすべてのものを名づけ、支配し、整序し、享受し、消費し、廃棄するという他動詞的な能作に耽っている。この私の自己中心的なある方をレヴィナスは「暴力」と呼んだ。

 そして源一郎氏は、文学の「死/死者」に対するあり方をリアリズム批判へと展開していく。もいっちょ引用。

 わたしたちは、言葉を使って、何かを支配しようとします。あるいは、言葉というものには、それを使う者に、何かを支配しようと無意識に思わせてしまう何か、そんな力ガル、といってもいいのかもしれません。
 もちろん、その事実が、その言葉を使う者に気づかれてはなりません。言葉は、さながら、その透明で中立的な外観によって、わたしたちに支配されるふりをしつつ、その実、わたしたちを自在にあやつっているのです。
 わたしの考えでは、「存在論の語法」とは、何ものかを「存在」させようという語法です。そして、「文学」における、そのもっとも有効なやり口を、わたしたちが「リアリズム」と呼びならわしてきたことは、あなたたちもご存知のはずです。

 さらに源一郎氏は、論説を現代詩のフィールドへ広げてゆく。
 
 ひさびさに高橋源一郎の書いた作品(これが文学論/評論なのか、それとも小説なのかは判断に苦しむが、ぼくは後者として読んで「楽しんだ」だほうがいいと思いつつ、前者として読みながら「学んでいる」)にエキサイトしている。